2010年05月02日

神秘とは?

木は神聖なものだと感じられる。
木と話し、木に耳を傾けることを知るものは真理を探究する者です。
木は教養も処分も説かないし、木は個々のことにとらわれず、生の根本法則を説いているようです。
木々達に降り注ぐ恵みの雨は、生の息吹を愛に換え和多志に示唆しているように思えた…朝の神秘に胸を打たれる。

今日の基礎知識は「神秘」です。神秘とは、人間がその知識や能力をもってしても全容を把握する(=知る)ことができない事物のことで、神や、「究極の真実」「霊的世界」などがこれに含まれるのです。
日本語では神が秘めたること(もの)という意味です。
日本文明圏においては神とはもともと先祖(かみ=上;時間的な先人)という意味から発し、それが秘め(隠し)たことという語意となります。
隠す場合、(多神教的)社会システムの変化、王朝とその宗教神話の変化、王権と政治的権威の変容、イデオロギーや思想の革命的断絶に伴い、その前の世代の発言を歴史的に抹殺しようとする価値変革を伴う歴史の力にあがなっても貴重であると思われる一種の価値です。あるいは現代思想を突き破る古層性を秘めた価値のことです。
人間は、一般的な事物について、それを言葉などで表現して伝えることができる。
だが、神秘は、人間が把握している既存の事物との関連で表現することができないのです。
すなわち、神秘は三次元的な科学的経験、あるいは法則として知覚することはできず、霊的世界などを直接体験したり、間接的に認識することによってのみ、知ることができるのです。
という見方もありますが、三次元的な空間に歴史という時間軸を入れた四次元的なものの見方の特に情熱的な形態をとった見方です。
例えば、光を見たことのない盲人に、光を見るのがどんな感じなのかを伝えることは難しいのです。
光を見るという体験を、その他の感覚、聴覚や触覚、味覚、嗅覚で説明することはできないのです。
神秘とは、そのようなものだといわれる。
それをマトモに付き合う必要はないが重要なのはそういう思想的考古学により一種の哲学が宿る情況が現れます。
そういった意味でニーチェなどもギリシャ悲劇を原点に重要な現代の弱点を指摘し続けているのです。
また、体験することも知ることもできない神秘が、最終的に残るとする考え方もあります。

神秘主義(しんぴしゅぎ)とは、人智の及ばない事物(神秘)が存在するとする考え方なのです。英語の mysticism の訳語にあたるが、mysticism は、この立場での神学や哲学を指すこともあり、この場合は神秘主義思想、あるいは神秘思想と訳されます。神秘主義思想には、神秘を体験するための技法や体系などを含むが、合理的、科学的な手法を批判的に捉える傾向があります。
ですが、自然科学で得られた知見を体系に取り入れることも、また多いのです。

神秘を直接知るための技法や、神秘の周辺にある知識の体系は、多くの場合、呪術的世界観や、あるいは過去の宗教の一部となって知られています。
例えば、仏典によれば、仏教において「悟り」を直接体験によって得た神秘家もいたと解釈できるのです。あるいはキリスト教においては、「神との合一」や「キリスト体験」などを直接体験した聖者もいたと言います。
また、「自分は何なのか?」という哲学的問いに、神秘体験によって答えを得た者もいるとされているのです。
このように、宗教は神秘と結びついているため、神秘を直接知った人物(神秘家)によって宗教が興されることもあります。
また、神秘家によって与えられた技法や体系から宗教が作られることもあります。
神秘は協力者なしでも知ることができますが、神秘家の協力があるとより容易になるといわれています。
但し、他者が協力できるのは、あくまでその準備だけであり、準備が整った後は、神秘を知る機会が偶然に訪れるのを待つしかないともいわれています。
神秘を知るのは、その準備が役立ったことによる場合が多いのですが、準備なく偶然に機会が訪れ、神秘を知るに至った人々もあるのです。
人間の知恵では計り知れない不思議な事として捉えていたのです。
普通の認識や理論を超えた事として捉えていたのです。神秘とは、人間の知識が最高であるという、愚かさが創り出した言葉であると言ってもいいでしょう。
普遍的な法則を個的な解釈で誤認識した結果、「神格化」したのが人類なのです。
自分の思考のベースを何処に置くかが重要なポイントなのです。
宇宙構造に概念中心を置くことで、アイデアや潜在意識の能力も出力しやすくなるのです。一番の神秘性を挙げるなら、あなたがこの宇宙に存在していることではないでしょうか。
そして、潜在意識によって心臓や脳が動かされている事こそ、神秘の極みなのです。そして、和多志達は出会えた…何と素敵なロマンだとは思いませんか…
そのロマンを一緒に育てる意識を持ち続ける事が「愛」なのです。ロマンに満ちて、愛で思考しているあなたは、本当に素敵です。
posted by Ryo1151 at 10:05| Comment(15) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

共鳴(きょうめい)

共鳴(きょうめい)とは、物理的な系がある特定の周期で働きかけを受けた場合に、その系がある特徴的な振る舞いを見せる現象を言います。
特定の周期は対象とする系ごとに異なり、その逆数を固有振動数と呼びます。
物理現象としての共鳴・共振は主にResonanceの訳語であり物理学では共鳴、電気を始め工学的分野では共振ということが多いのです。
共鳴が知られることになった始原は音を伴う振動現象であると言われるが現在では、理論式の上で等価・類似の現象も広く共鳴と呼ばれています。
(バネの振動・電気回路・核磁気共鳴 etc.)
[1]きわめて通俗的な説明としては、ある物体Aの振動エネルギーが、別の物体Bに移る現象だとしてもよいのです。
A(振動)→B 、 A→(振動)Bしかし、A・Bが電波とアンテナのような場合必ずしもAは物体でなくともよく、自己共鳴的な現象では必ずしもAの存在は必要とされません。
また、核磁気共鳴のような場合は摂動磁場の振動に対する磁性の変化として現象が現れるため振動やエネルギーの移動があるわけではないのです。
共鳴が起きた場合、理論式の上では系を特徴付ける物理量が0や無限大になる場合が多いのです。また、外部からの振動が与え続けられる場合、振動を受ける側に破壊的現象が起こる場合があります。
あらゆる物体には固有振動数(その物体にとって振動し易い振動数)があります。
外部から振動が与えられるとき、与えられる振動が固有振動数に近づくにつれ物体の振幅が急激に増大します。この現象を「共鳴」または「共振」と言います。
遊具の「ブランコ」の、動きの調子に合わせて力を加えると次第に揺れが大きくなる様子が参考になります。楽器や発声にあっては、発音体(発音物質、弦やリードなど)の振動がより大きな物体(筐体、共鳴腔)に伝わり共鳴することで、より人間が聞きやすい音に変化します。
すなわち、発音体単独の時よりも、聴覚上大きな音が得られます。これは音色の変化でもあるのです。楽器によっては共鳴によって安定した音高を得ているのです。
量子力学的な人間における共鳴とは、「その個人が持っている、オファーデータの質的同一周波数」という事になります。
最も分かりやすい「共鳴関係」は、出会いの強度分布による「出会いの関わり」なのです。出会いまでは、潜在意識が引き寄せますが、その出会いをどの方向へ進ませるかは、その人の持っている概念に表れるのです。宇宙創造意思が導いた「この出会い」を素晴らしい目的の概念によって、生命が最も歓喜する情報を寄与出来るような意識を持ち続けたいモノです。

河や海が数知れぬ渓流のそそぐところとなるのは、身を低きに置くからです。
それ故に、河や海はもろもろの渓流に君臨(くんりん)することができるのです。
同様に、賢者は、人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置くのです。
かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがないのです。朝の老子の言葉です。
大いなる存在との誓願を果たすべく、宇宙と共鳴した一日を…
posted by Ryo1151 at 18:56| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月29日

鏡像

もし人が身体に捕らえられるなら健康と病気があるでしょう。もし人が経済に捕われるなら裕福と貧乏があるでしょう。もし人が身の上に捕われるなら幸運と不運があるでしょう。

これをたとえば健康と病気、裕福と貧乏、幸運と不幸のほうから眺めていると、(多くの人の日常はこのようなものですが)なかなか実体がわかりません。人はなぜか良いものばかりを求めて、悪いものにしがみついているからです。

しかし学ぶならば、その良いものと悪いものがあるということには何か意味がありそうだ、と考えることができます。とはいえこれはかなり複雑であって、それがまた人を虜にするように働きます。それは、このまっただなかで研究すべきことです。

たとえば戦争と平和はともに投げ捨てることによって平和が実現できます。しかしとりあえず平和な日本でこう言っているから理解できるわけで、争いの絶えない国では理解できません。武装解除したら、どこかか攻めてくるというわけです。

しかし全世界の人がそれらを投げ捨てることは可能です。そうすれば平和が訪れます。あまりに単純です。これが実現できないのはなぜなんでしょう。それは投げ捨てることに対する恐怖にすぎないのではないでしょうか。

人は充分に学び進歩しなくてはなりません。(おそらく単に「自然に帰る」などということは学ぶことではありません。ある意味では戦争と平和は、それを乗り越えることによって人の役に立つのです)。

善と悪はどうでしょう。人がそのどちらかに捕らわれているかぎりは、反対のものが常にあります。これらも単に拠り所を求めているだけです。そういうものですが、それはやはり働きとして人の役に立ちます。

たとえば人が自分の悪を許すことができるのは、この仕組みを良く知ることによってなされます。善も悪も人の役に立っていること、そうしてその仕組みを知っているということ、それが人をして自分自身を許すことを可能にします。

悪は人を反省させることだけでも役に立っています。ただ本当は善も悪も、同じく人のためにあるのだと知ることが大切です。そうでなくただ一人で暮らすとか、人に迷惑をかけないことをモットーにするというのでは、折角ある善悪を活用することにはなりません。親孝行と親不幸は同じものです。親孝行で親が喜びます。親不幸で親が泣き叫びます。どちらも同じことです。

裕福と貧乏はどうでしょう。これは人が経済に捕らわれているということです。ふつうは自分が貧乏なのはどうしてだろう?もっとお金が欲しい、といったことで、これを、経済を見ていません。見ていないながらそれに捕らわれているのです。経済というものがあると思う限り、それらはあるのです。

では、それを投げ捨てることができるか?こんな問題があります。たとえばお金持ちが(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり裕福です。貧乏な人が(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり貧乏な人です。これは現実であって投げ捨てることはできない、こう多くの人は思っています。しかし自分だけよければという経済を全世界の人が投げ捨てたら、どうでしょう。それを何と呼んでもよいのですが、そういうことは可能ではないでしょうか。

そこに自分がいると思う、そういうことを捨てることが人にはできると思います。人はこのようなことを学ぶために毎日うめき苦しみ生活しているのではないでしょうか。

では病気と健康はどうでしょう。人が身体を頼りにしているなら、それらは必ずあります。病気の人が健康と病気を投げ捨てたら、やはり病気です。健康な人が病気と健康を投げ捨てたら、やはり健康です。

とはいえ多くの宗教ではそれも自分の思った通りになると言います。いままで悪いほうの半分にいたのなら良い方の半分に転がってもかまいはしません。ふつうは健康を求めていながらも人は病気にしがみついているものなのですから。

人は思って健康になれるのか金持になれるのか幸運になれるのか善になれるのか平和になれるのか私は知りません。知りませんが、問題はここにあります。なれると思っているからお題目をとなえたり祈ったりしたりする人がいるのではないかとも思います。そうして、結果的にそのようになる人もそうならない人もいるでしょう。

ここで思うのではないでしょうか。これを理解しなければいけない。そうでなければ良くなったといっても意味がないと思うから、思ったようにはならないのかも知れません。

それはそれとして。では経済と運はどう関係があるでしょう。道徳と経済はどう関係があるでしょう。これはこういうことです。人が経済にとらわれるなら裕福も貧乏もある、人が身体に捕らわれるなら健康も病気もある。では、この経済と身体はどう関係があるのでしょう、ということです。

人は道徳に捕らわれるなら善と悪があります。経済と道徳はどう関係があるのでしょう、ということです。これは何も関係がないのだと思います。けれど健康とか貧乏とかのことばかり見ていると、関係がありそうに見えるのです。これがまた人をそれに捕らえるように働きます。「なぜ清く正しい人が不運なことがあるのだろう」というわけです。

これを関係ないと言ったらミもフタもないかも知れません。でもまあ、そういうことにします。そうしておけば、いずれ理解が進むでしょう。

そうして関係がないということは実際にはどういうことかは、まだ知れてはいないのです。すくなくても何か関係があると思うから捕らわれていることができると言えるかも知れません。何か関係かあると思うから、人は貧乏や裕福に捕らわれるのではないでしょうか。

つまり人が貧乏や裕福に捕らわれるというのは、その2つのものの関係だけではなく、それを統合するもの(経済)に拠り所を持ち、さらに別のもの(例えば道徳)の関係もあるのではないかと考えるからかも知れないということです。

ところでこの辺りのことで人はどう思うのだろう。たとえば人は自分がその辺りにいると感じているだろうか。私は自分がそこにはいないと感じます。それが私の苦痛です。そこに自分がいない、これが私を平安にしません。

このようなあれやこれやは、そういった働きがありそうです。健康と病気に捕らわれる自分、裕福と貧乏に捕らわれる自分、善と悪に捕らわれる自分。そういうものが私にはないと感じられるのです。それが私の不幸です。

それに自分が捕らわれることができない、そこに自分がいない。それを知っていることが私の不幸です。あるいは捕らわれているのだけれども、それに価値を認めにくいということです。

そのようにこの辺りは感じるのではないでしょうか。そのようになっているのではないでしょうか。これを理解したいと思います。この世界はこのようなあのようなことでしかできていない、そこに自分はいない。それをどうすればよいだろうか。

私は人から自我の強い人であると見られることがあります。それはかまいません。いくら自我が強くてもかまいません。また弱くてもかまいません。人はそのどちらにもなれるのですし、どうというものでもありません。それにどんなに自我が強くても自分はそこにいないと私は知っているのです。これが私の不満です。

もう少し違う例えをしてみます。偽善と嫉妬は鏡像の関係にあります。偽善とは心の黒い人が形だけ(実は自分の構成要素のために)人のためになることをするということです。嫉妬はその裏返しです。それで偽善者は嫉妬する者なのです。それは不可分です。

これを人は知っておきましょう。ある人が嫉妬することがあるなら、その強さに応じて偽善者なのです。ある人が偽善者なら必ず、どんなに隠していても嫉妬する者なのです。私にはそれを理解したせいか、そういう気持ちがありません。

ともにないのです。もしあってもそれはそこにあるだけで、私に影響をあたえません。私が、自分がいないのを、そこにいないのを知っているのです。これは単に私が消極的な性格だからというわけだろうか、少しは嫉妬するくらいの根性があった方がいいのだろうかとか考えてみました。

しかし、そういうことであってもなくても、私はそこに自分がいないのを知っているのです。それが私の不幸です。ま、ことさらそう感じる必要はないのですが。そういう状態に私がいるということは確かなのです。

ともあれ、このような考えは世界が存在するのかどうかを問うことにもなっています。ところでちょっと思いつき。「神を見たことがないから信じられない」ということについて。そうは言っても見ているものを信じられるとどうして言えるのだろうか。夢を見ることもある幻覚を見ることもある錯覚をもたらす図形もある。見たのにそれは信じることはないであろう。見て信じられないものがあるのに、どうして「見たら信じる」ということが成り立つだろうか。

よ−するに、そう言う人はそれを知らないということしか示していないのです。自分で知りもしない考えを自分の拠り所にしてはいけません。それに信じることと存在することは何も関係ないのです。私は神を信じない、けれど神が存在することを知っています。

また思いつき。この前沖縄の霊能力者とか東北の超能力少女が「東京に地震がある」と予言してテレビなどで話題になりました。みんな楽しみに待っていたのですが、何も起きませんでした。予言できるということは未来が定まっているということです。そうして予言すると未来が変わってしまいます。ここに予言の矛盾があると思います。このようなことを能力者はどう思っているのでしょう。

餌と釣針。ふつう人は人生の一時期にしても、有名になりたいとか思うことがあるでしょう。それは実のところ人に対する信用を得たいと思うことに他なりません。新しいことをするにせよ、直ぐに初対面の人からも手助けを得ることを望むということです。

ところが有名になりたい人は余りこのことに気がつこうとしません。ただ夢のように有名になりたいのです。それは信用という魚を釣る道具なのです。しかも自分で握りしめたその道具を絶対条件だと思っているに過ぎません。

ことさら信用ということは、その反対のものの排除です。この反対のものを人がそのようにして作り上げていると言えないではありません。もし初めから疑うことなければ事態は随分ちがっているでしょう。それでもなお有名になりたいと人が思うのでしょうか。私は知りません。

また、たとえば人は恋をすることがあるでしょう。それは異性を得るための釣り道具であるかも知れません。というのも恋なしにそれを得ることもできるからです。財産の場合も、家柄の場合も、能力の場合も、ま、いろいろあるでしょう。

それは徹底して美しくありません。しかし何かが美しくて何かが美しくないということは変といえば変です。ここでは人がそのような道具を持っているということ、その理解で充分です。その道具を握りしめて使うことも勝手ですし磨きあげるのも勝手ですし手放すことも勝手です。

ただ魚を得ることは決して目的ではないということ、これが大切だと思います。道具を握りしめているからそのように見えるだけではないでしょうか。

それが見掛けの必然性を与えています。手段と目的はこのようなものであって、目的と手段を取り違える、というのが人にとって誤っているのではありません。ここで言う目的とは、ほんとの目的ではないから誤っているのです。

そういうものは例えば金持になる、権力者になる、自己顕示を満足させる、教育するなど、色々なことがあります。そういう形あるものを求めることは原因が結果になり結果が原因になり、そこには迷いしかありません。では目的とは、人が学ぶこと、成長すること、自己になることだと思います。それはあれやこれやの条件によって生じますが、それには関わらないのです。
posted by Ryo1151 at 20:20| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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