2010年04月30日

共鳴(きょうめい)

共鳴(きょうめい)とは、物理的な系がある特定の周期で働きかけを受けた場合に、その系がある特徴的な振る舞いを見せる現象を言います。
特定の周期は対象とする系ごとに異なり、その逆数を固有振動数と呼びます。
物理現象としての共鳴・共振は主にResonanceの訳語であり物理学では共鳴、電気を始め工学的分野では共振ということが多いのです。
共鳴が知られることになった始原は音を伴う振動現象であると言われるが現在では、理論式の上で等価・類似の現象も広く共鳴と呼ばれています。
(バネの振動・電気回路・核磁気共鳴 etc.)
[1]きわめて通俗的な説明としては、ある物体Aの振動エネルギーが、別の物体Bに移る現象だとしてもよいのです。
A(振動)→B 、 A→(振動)Bしかし、A・Bが電波とアンテナのような場合必ずしもAは物体でなくともよく、自己共鳴的な現象では必ずしもAの存在は必要とされません。
また、核磁気共鳴のような場合は摂動磁場の振動に対する磁性の変化として現象が現れるため振動やエネルギーの移動があるわけではないのです。
共鳴が起きた場合、理論式の上では系を特徴付ける物理量が0や無限大になる場合が多いのです。また、外部からの振動が与え続けられる場合、振動を受ける側に破壊的現象が起こる場合があります。
あらゆる物体には固有振動数(その物体にとって振動し易い振動数)があります。
外部から振動が与えられるとき、与えられる振動が固有振動数に近づくにつれ物体の振幅が急激に増大します。この現象を「共鳴」または「共振」と言います。
遊具の「ブランコ」の、動きの調子に合わせて力を加えると次第に揺れが大きくなる様子が参考になります。楽器や発声にあっては、発音体(発音物質、弦やリードなど)の振動がより大きな物体(筐体、共鳴腔)に伝わり共鳴することで、より人間が聞きやすい音に変化します。
すなわち、発音体単独の時よりも、聴覚上大きな音が得られます。これは音色の変化でもあるのです。楽器によっては共鳴によって安定した音高を得ているのです。
量子力学的な人間における共鳴とは、「その個人が持っている、オファーデータの質的同一周波数」という事になります。
最も分かりやすい「共鳴関係」は、出会いの強度分布による「出会いの関わり」なのです。出会いまでは、潜在意識が引き寄せますが、その出会いをどの方向へ進ませるかは、その人の持っている概念に表れるのです。宇宙創造意思が導いた「この出会い」を素晴らしい目的の概念によって、生命が最も歓喜する情報を寄与出来るような意識を持ち続けたいモノです。

河や海が数知れぬ渓流のそそぐところとなるのは、身を低きに置くからです。
それ故に、河や海はもろもろの渓流に君臨(くんりん)することができるのです。
同様に、賢者は、人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置くのです。
かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがないのです。朝の老子の言葉です。
大いなる存在との誓願を果たすべく、宇宙と共鳴した一日を…
posted by Ryo1151 at 18:56| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月29日

鏡像

もし人が身体に捕らえられるなら健康と病気があるでしょう。もし人が経済に捕われるなら裕福と貧乏があるでしょう。もし人が身の上に捕われるなら幸運と不運があるでしょう。

これをたとえば健康と病気、裕福と貧乏、幸運と不幸のほうから眺めていると、(多くの人の日常はこのようなものですが)なかなか実体がわかりません。人はなぜか良いものばかりを求めて、悪いものにしがみついているからです。

しかし学ぶならば、その良いものと悪いものがあるということには何か意味がありそうだ、と考えることができます。とはいえこれはかなり複雑であって、それがまた人を虜にするように働きます。それは、このまっただなかで研究すべきことです。

たとえば戦争と平和はともに投げ捨てることによって平和が実現できます。しかしとりあえず平和な日本でこう言っているから理解できるわけで、争いの絶えない国では理解できません。武装解除したら、どこかか攻めてくるというわけです。

しかし全世界の人がそれらを投げ捨てることは可能です。そうすれば平和が訪れます。あまりに単純です。これが実現できないのはなぜなんでしょう。それは投げ捨てることに対する恐怖にすぎないのではないでしょうか。

人は充分に学び進歩しなくてはなりません。(おそらく単に「自然に帰る」などということは学ぶことではありません。ある意味では戦争と平和は、それを乗り越えることによって人の役に立つのです)。

善と悪はどうでしょう。人がそのどちらかに捕らわれているかぎりは、反対のものが常にあります。これらも単に拠り所を求めているだけです。そういうものですが、それはやはり働きとして人の役に立ちます。

たとえば人が自分の悪を許すことができるのは、この仕組みを良く知ることによってなされます。善も悪も人の役に立っていること、そうしてその仕組みを知っているということ、それが人をして自分自身を許すことを可能にします。

悪は人を反省させることだけでも役に立っています。ただ本当は善も悪も、同じく人のためにあるのだと知ることが大切です。そうでなくただ一人で暮らすとか、人に迷惑をかけないことをモットーにするというのでは、折角ある善悪を活用することにはなりません。親孝行と親不幸は同じものです。親孝行で親が喜びます。親不幸で親が泣き叫びます。どちらも同じことです。

裕福と貧乏はどうでしょう。これは人が経済に捕らわれているということです。ふつうは自分が貧乏なのはどうしてだろう?もっとお金が欲しい、といったことで、これを、経済を見ていません。見ていないながらそれに捕らわれているのです。経済というものがあると思う限り、それらはあるのです。

では、それを投げ捨てることができるか?こんな問題があります。たとえばお金持ちが(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり裕福です。貧乏な人が(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり貧乏な人です。これは現実であって投げ捨てることはできない、こう多くの人は思っています。しかし自分だけよければという経済を全世界の人が投げ捨てたら、どうでしょう。それを何と呼んでもよいのですが、そういうことは可能ではないでしょうか。

そこに自分がいると思う、そういうことを捨てることが人にはできると思います。人はこのようなことを学ぶために毎日うめき苦しみ生活しているのではないでしょうか。

では病気と健康はどうでしょう。人が身体を頼りにしているなら、それらは必ずあります。病気の人が健康と病気を投げ捨てたら、やはり病気です。健康な人が病気と健康を投げ捨てたら、やはり健康です。

とはいえ多くの宗教ではそれも自分の思った通りになると言います。いままで悪いほうの半分にいたのなら良い方の半分に転がってもかまいはしません。ふつうは健康を求めていながらも人は病気にしがみついているものなのですから。

人は思って健康になれるのか金持になれるのか幸運になれるのか善になれるのか平和になれるのか私は知りません。知りませんが、問題はここにあります。なれると思っているからお題目をとなえたり祈ったりしたりする人がいるのではないかとも思います。そうして、結果的にそのようになる人もそうならない人もいるでしょう。

ここで思うのではないでしょうか。これを理解しなければいけない。そうでなければ良くなったといっても意味がないと思うから、思ったようにはならないのかも知れません。

それはそれとして。では経済と運はどう関係があるでしょう。道徳と経済はどう関係があるでしょう。これはこういうことです。人が経済にとらわれるなら裕福も貧乏もある、人が身体に捕らわれるなら健康も病気もある。では、この経済と身体はどう関係があるのでしょう、ということです。

人は道徳に捕らわれるなら善と悪があります。経済と道徳はどう関係があるのでしょう、ということです。これは何も関係がないのだと思います。けれど健康とか貧乏とかのことばかり見ていると、関係がありそうに見えるのです。これがまた人をそれに捕らえるように働きます。「なぜ清く正しい人が不運なことがあるのだろう」というわけです。

これを関係ないと言ったらミもフタもないかも知れません。でもまあ、そういうことにします。そうしておけば、いずれ理解が進むでしょう。

そうして関係がないということは実際にはどういうことかは、まだ知れてはいないのです。すくなくても何か関係があると思うから捕らわれていることができると言えるかも知れません。何か関係かあると思うから、人は貧乏や裕福に捕らわれるのではないでしょうか。

つまり人が貧乏や裕福に捕らわれるというのは、その2つのものの関係だけではなく、それを統合するもの(経済)に拠り所を持ち、さらに別のもの(例えば道徳)の関係もあるのではないかと考えるからかも知れないということです。

ところでこの辺りのことで人はどう思うのだろう。たとえば人は自分がその辺りにいると感じているだろうか。私は自分がそこにはいないと感じます。それが私の苦痛です。そこに自分がいない、これが私を平安にしません。

このようなあれやこれやは、そういった働きがありそうです。健康と病気に捕らわれる自分、裕福と貧乏に捕らわれる自分、善と悪に捕らわれる自分。そういうものが私にはないと感じられるのです。それが私の不幸です。

それに自分が捕らわれることができない、そこに自分がいない。それを知っていることが私の不幸です。あるいは捕らわれているのだけれども、それに価値を認めにくいということです。

そのようにこの辺りは感じるのではないでしょうか。そのようになっているのではないでしょうか。これを理解したいと思います。この世界はこのようなあのようなことでしかできていない、そこに自分はいない。それをどうすればよいだろうか。

私は人から自我の強い人であると見られることがあります。それはかまいません。いくら自我が強くてもかまいません。また弱くてもかまいません。人はそのどちらにもなれるのですし、どうというものでもありません。それにどんなに自我が強くても自分はそこにいないと私は知っているのです。これが私の不満です。

もう少し違う例えをしてみます。偽善と嫉妬は鏡像の関係にあります。偽善とは心の黒い人が形だけ(実は自分の構成要素のために)人のためになることをするということです。嫉妬はその裏返しです。それで偽善者は嫉妬する者なのです。それは不可分です。

これを人は知っておきましょう。ある人が嫉妬することがあるなら、その強さに応じて偽善者なのです。ある人が偽善者なら必ず、どんなに隠していても嫉妬する者なのです。私にはそれを理解したせいか、そういう気持ちがありません。

ともにないのです。もしあってもそれはそこにあるだけで、私に影響をあたえません。私が、自分がいないのを、そこにいないのを知っているのです。これは単に私が消極的な性格だからというわけだろうか、少しは嫉妬するくらいの根性があった方がいいのだろうかとか考えてみました。

しかし、そういうことであってもなくても、私はそこに自分がいないのを知っているのです。それが私の不幸です。ま、ことさらそう感じる必要はないのですが。そういう状態に私がいるということは確かなのです。

ともあれ、このような考えは世界が存在するのかどうかを問うことにもなっています。ところでちょっと思いつき。「神を見たことがないから信じられない」ということについて。そうは言っても見ているものを信じられるとどうして言えるのだろうか。夢を見ることもある幻覚を見ることもある錯覚をもたらす図形もある。見たのにそれは信じることはないであろう。見て信じられないものがあるのに、どうして「見たら信じる」ということが成り立つだろうか。

よ−するに、そう言う人はそれを知らないということしか示していないのです。自分で知りもしない考えを自分の拠り所にしてはいけません。それに信じることと存在することは何も関係ないのです。私は神を信じない、けれど神が存在することを知っています。

また思いつき。この前沖縄の霊能力者とか東北の超能力少女が「東京に地震がある」と予言してテレビなどで話題になりました。みんな楽しみに待っていたのですが、何も起きませんでした。予言できるということは未来が定まっているということです。そうして予言すると未来が変わってしまいます。ここに予言の矛盾があると思います。このようなことを能力者はどう思っているのでしょう。

餌と釣針。ふつう人は人生の一時期にしても、有名になりたいとか思うことがあるでしょう。それは実のところ人に対する信用を得たいと思うことに他なりません。新しいことをするにせよ、直ぐに初対面の人からも手助けを得ることを望むということです。

ところが有名になりたい人は余りこのことに気がつこうとしません。ただ夢のように有名になりたいのです。それは信用という魚を釣る道具なのです。しかも自分で握りしめたその道具を絶対条件だと思っているに過ぎません。

ことさら信用ということは、その反対のものの排除です。この反対のものを人がそのようにして作り上げていると言えないではありません。もし初めから疑うことなければ事態は随分ちがっているでしょう。それでもなお有名になりたいと人が思うのでしょうか。私は知りません。

また、たとえば人は恋をすることがあるでしょう。それは異性を得るための釣り道具であるかも知れません。というのも恋なしにそれを得ることもできるからです。財産の場合も、家柄の場合も、能力の場合も、ま、いろいろあるでしょう。

それは徹底して美しくありません。しかし何かが美しくて何かが美しくないということは変といえば変です。ここでは人がそのような道具を持っているということ、その理解で充分です。その道具を握りしめて使うことも勝手ですし磨きあげるのも勝手ですし手放すことも勝手です。

ただ魚を得ることは決して目的ではないということ、これが大切だと思います。道具を握りしめているからそのように見えるだけではないでしょうか。

それが見掛けの必然性を与えています。手段と目的はこのようなものであって、目的と手段を取り違える、というのが人にとって誤っているのではありません。ここで言う目的とは、ほんとの目的ではないから誤っているのです。

そういうものは例えば金持になる、権力者になる、自己顕示を満足させる、教育するなど、色々なことがあります。そういう形あるものを求めることは原因が結果になり結果が原因になり、そこには迷いしかありません。では目的とは、人が学ぶこと、成長すること、自己になることだと思います。それはあれやこれやの条件によって生じますが、それには関わらないのです。
posted by Ryo1151 at 20:20| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月27日

問いかけ。

おまえに世界の半分を与えよう。たとえば自分の心を、しっかりと定め善を求めるがよい。おまえは何か理想を求めて努力するがよい。人に親切にするがよい。親孝行するがよい。神を信じるがよい。そうすれば、おまえに世界の半分を与えよう・・・。それも良い方の半分を与えよう。悪い半分はお前に必要がない、捨てるのだ・・・。悪魔の契約とはこのようなものです。人はみな喜んで血の署名をしてしまいます。

ところがこれは多く見積っても全然半分でもありません。半分の半分の無限の半分でも得ることができたら儲け物です。しかもそういうことは起きた試しがないでしょう。どれほど人は自分が狭い領域に閉じ込められているか理解できません。それは居心地が良く、あるいは苦痛に満ちて守られているからです。また逆の半分を得ようとする人がいます。これも同じことで同じように意味がありません。これを知ることは難しいのです。

もしこれから学ぶことなければ、単なる処世術にしか過ぎないものになるでしょう。人はそこに自分自身がいるなどとさえ思ってしまいます。そうしてそこから抜け出すことは本当に難しいのです。これはその仕組みを良く知ることが大切です。世界の半分は残りの半分がなくては有り得ません。互いに互いを支えあっているのです。

しかしそれだけではいけません。罠に捕らえられた動物が知ることができるのは罠です。動物は罠に捕らえられなくては罠を知ることはできません。ただ近くを通り過ぎただけではそれを見ることさえありません。しかし半分と半分の鉄の歯に挟まれたと知ったところで、それから逃れられるという補償はありません。実際の問題は、それから逃れることです。

ところで広島に原爆が落ちて64年になります。この時期になると広島で原水爆禁止、世界平和を訴える人々が風物詩のようにテレビのニースになります。もう戦争は嫌だから止めようね、ということだと普通の日本人は思っています。

それを被害者意識が強いと、見る外国人もいるとのことです。なるほど単に平和運動をするのであれば何も広島でなくてもよいのです。単なる平和運動をすればいいのです。いや全然しなくても良いのです。

それでかどうか知りませんが今年、ある日本人が広島に原爆の落ちたことを謝ったのだそうです。それを見て感動した、これで世界が一つになれる可能性がでてきた、と言う外国人がいたという新聞記事がありました。なるほど、でも同じなのです。おなじ所をぐるぐる回転しているに過ぎません。

バスケットボールで軸足を中心に身体を回転させるのは歩いたことにならないというルールがあります。同じ位置にいながら前の味方コートを向けば平和、後ろの敵コートを向けば戦争、そんな具合です。同じ位置にいるのです。それが罠に捕らえられた人がすることです。

ま、でも全然動かないというわけでもありません。たとえば某国人は日本に対して非常に被害者意識が強いようです。それで何か威張っています。そういうのは加害者である日本を拠り所にして自分の被害者である立場を築いています。自分の意見の根り拠を相手に持っているのです。回転することもできていません。

さあ、どうする?バスケットのたとえで言うと、もうボールを投げてしまえばいいのです。戦争も平和も投げてしまえば良いのです。そうすれば本当の平和が実現するでしょう。しかしこれは難しいのです。

そうしろと言っても、そうできない百万の理由が考えられるでしょう。理由とは、それを投げ捨てることのないように考えつくものです。何か人が反論できない意見や理由を考えついた方が勝、などという馬鹿なことになったりします。

もともとそういうことがおかしなことであるのに気がつかないのでしょうか。頭の体操です。人は平和よりも、その概念を好むと言うことができるかも知れません。それは学ぶこと、そのようなものを発達させることの準備として役に立っているのでしょう。

そうして人がボールを手放したとします。そのためには人が学びきること、そうして成長することが必要条件です。解放感を味わいます。けれどすぐまた誰かがボールを投げて寄越すのです。人は執着を手放すことができます。戦争と平和を手放すことができます。愛と憎しみを手放すことができます。しかし、自分の状態、これを手放すことは難しいのです。


これをもう少し詳しく見てみます。人が戦争と平和の概念を投げ捨てると、平和が訪れます。あたり前ですが、平和でない国でそんなことをすると、戦争に巻き込まれます。たとえば人が貧乏と裕福を投げ捨てたとしてみましょう。

しかしその人が裕福であれば裕福でしょうし、貧乏であれば貧乏でしょう。すると、これは平和がない国の人が平和でないことを現実だと思っているように、経済を現実だと思っているのです。幸運とか不運を投げ捨てた人にとってもやはり運はあるでしょう。

それに人は全く捕らえられる必要はないのだけれど、どうしても、捕らわれてしまいます。「清く正しい人が貧乏なのはなぜなんでしょう」。こんな問題があります。ソロモンは清く正しい人でしたが、裕福であり、このようなことを見て、後の人に問いかけを残しました。
posted by Ryo1151 at 21:06| Comment(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月26日

自己保存

人は自分で思ったことを自分で知ることができます。ビールが飲みたいとか、散歩しょうとか、そういうこととしても、そう思ったことをそう思った通りに知ることができます。これは不思議なことなのですが、み−んなはどうかな?

さて、自己保存。これはいろいろ難しいことがあります。と言うのもそれは仮の自己をそれ自身が保存するいろいろな方法があり、仮の自己といってもいろいろな種類があるからです。方法とは、倒錯がそうです。執着がそうです。みずからを義とすることがそうです。自由を求めるということがそうです。意味を知らないということがそうです。

種類とは世界がそうです。感覚がそうです。感情がそうです。思考がそうです。心がそうです。命がそうです。行いがそうです。ほかにもまだあるでしょう。それらは実に迷いの領域にあります。もしそれが迷いでないとしたら、それは自己でしょうし、自己は存在しないでしょう。

ただこれらの生じる基というのがなにかありそうな気がします。それは人が自分自身を知らないということにあるかも知れません。たとえば普通の自己保存と言っても、それが守ろうとしているものは身体とか感覚とか感情とか思考とか、そういったものですが、それだけならけっして迷いでもなんでもなく言わば本能みたいなものです。

それが迷いとなるのは、じつに人が自分自身が存在するかどうか知らないというところにもあります。このことを知らねばいろいろ問題がありそうです。これへの問いが、一応、ものそのものへの問いとしてあります。

ものそのものの問いは「この壷が土であるように、お前は何であるか」という古代インドの親子の会話に例をみることができます。ここでは自己とは何かということがはっきり問われています。

これは生きても死んでも人の自己は存在しますか?という問いでもあります。これを人は知らないのです。この知らないことが自己保存に関わります。人は生きている時は自己(が存在)であるかどうか知らないけれど、死んでも自己でありますように、こんな願いがあるのではないかと思います。ただこの間いは困難で、だれもが考えたことは必ずあるとは思うのだけれど、すぐ諦めるというか忘れるというか、してしまいます。

けれどここでの自己保存の思いといういうのは実に切実で、それはこの問いが人の優先事項であることを示しているのではないでしょうか。それを破棄するというのはなにか理由があるのでしょうか。

ではその困難な面から少し見ていくことにします。人は自分が確かな存在だと思いたいとします。そうするとはっきりした根拠を求めるというのが通例です。なぜそうなのかわたしにはわかりませんが、取り敢えずはそうなっていると言っていいでしょう。

それで自己とかが何かに根拠を持つとします。するとどうでしょう。それはそれ自身では存在しないということになるのではありませんか。(もちろんこの反対の意見もいろいろな理由によってありますが、後述することにして、取り敢えずはこれで行きます)。

たとえば仏教でいう「条件によって生じたものは(それ自身で)生じたものではない」ということになります。その条件がなくなるとまた生じたものもなくなると説明されています。原因と結果、因果関係とも言われています。

それでもこの世では人は自分の拠り所を一生懸命に求め、そうするとが自己の存在を確定することだと思われているフシがあります。たとえば理論とか科学とか金とか地位とか親子関係とか感情とか、そういうものに人は拠り所を求めるわけです。

これは自己保存であり、この意味では自己の存在を知らないということが、自己保存の起原であるといってもよいでしょう。この無知さ加減を自分で認識するまでは、どうしてもそのような働きが人にはあるでしょう。それは言わば自己への問いの代償です。その代償もなくなるとかなり困ったことになるでしょう。

では拠り所がないのが、自己が存在するという確かな証拠になるでしょうか。このこともまた困難な道です。ものごとが、自己が、なにも拠り所がないならば、それはそれ自身で存在すると言えるでしょうか。これは言えません。それは全くの幻であるといってもよいからです。

これも自己保存の現れですが、両者は相容れることが、まずありません。しかしこのようなことがあるというのは必ず統合することがあるはずです。(ここで中道を言ってもいいのですが、中道とは単に真ん中とか両極端に偏らないことではありません)。

ではどうすれば良いのでしょうか。ここで後述を始めます。人がなにかに拠り所をもって、それでいて人の存在が確かなことがあるということがあります。それは人がかくある原因になっていることが、その拠り所であれば、そうでしょう。神がそうです。また、人は条件によって生じたのであるから、実際には生じているわけではないという考えもあります。生じていないのだから滅もまたないというわけです。不生不死とも言われます。

この世界のものを見るに、それらは原因とか結果によって生じている、この世界そのものが幻であるということです。これは龍樹の得意技です。(人の自己はいつも何かを探していますし、その対象物は原因なしで存在するのか、原因があって存在するのか、それはどういうことなのかそれぞれの場合についての理解する必要がありますし、この場合のものそのものとは何かという問題もあります)。

また例の古代インドの親子も彼等なりの依存関係で理解しました。肉体とか心とかを馬車と馬に例え、御者を自己に例えました。(ここでも依存関係とは順番のことであり、この会話を単に例え話としてみるならば誤った考えに見えます)。して見るといろいろな解決があるわけです。なのにこれが困難なのは、神は信じるということ、仏教関係は迷いの道で正しい目的にまで行くという難しさがあるからかも知れません。
posted by Ryo1151 at 20:43| Comment(15) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月25日

二相一対。

さて、Aがあるのは反(非)Aがあるからである。このように2元論を言うこともできます。もちろんこの場合でもAがあると言いながら、それは実はあるように見えるだけであって、それだけでは存在しない、無常だよ、ということを言おうとしているのだと思います。

ただそれで言おうとしている無常は多分人を納得させえないことでしょう。じつにこの世界が無常であろうが、恒常であろうか、どう言おうが、人の自己とはこんなものであると人に納得させようとすることなのですが、どうもうまくいかないことがおおいいと思います。

それは理論的に誤っているし、理論には反意見があるし、理論はそれらしく見えるということに価値があるだけのものだし、人がどれだけ訳わからなくなって自己を知るということであっても、なかなか難しいものです。

では因果関係はどうでしょうか。「ものごとは条件によって生じたものであり、それ自体では生起も滅もない」こういうならそれは2元論とあまり変わるところはないと思われます。この世界の無常を強調し、ついでに自己の無常を言おうとしてもいるのでしょうが、人とものとの関係がいまいち不鮮明ではないでしょうか。

では依存関係は何を示すでしょう。それは世界が無常であっても恒常であっても成立しますが、それもまた、人の自己の正しい在り方を示す、倒錯なくある在り方を示すのみであります。


自己とはなにか?どうしてこのようなことが考えることができるのか?これを疑問にできることに、わたしは今日、不思議を感じました。そうしてたまたま、お経のなかに「空即是色・色即是空」というのがあったのを思いだし、それは「そんなことはどうでもよい」と訳すといいと思いました。

一般には「人が存在と思っているものは実は空で、空と思っているものは実は存在だ」と言うようですけど、これが対句であることを忘れています。すべてのことは空でも色でもどうでもよい、こういうことではないか、でなければ同じことを逆に言い直すことなど意味ないと思いました。

で、始めます。依存関係に矛盾があるでしょうか。依存関係とは、世界があるのは、それは感覚器官があるからであり、それは感覚があるからであり、それは感情があるからであり、それは意識があるからであり、それは自己があるからである、こういうことです。

そうしてそれぞれのものは、それ自体で存在しているにしても、条件によって生起するところのそれ自体では存在しないものであるにしても、同じあるということです。わたしには見つかりませんが、これには反対意見があるはずです。

というのも2元論がそれ自身を示すためにあったのではないように、依存関係も示すことがらがあるからです。それは単純。順番です。つまり(1)感覚や感情や意識は自己のためにあるのであって、(2)自己が感覚や感情や意識のためにあるのではないということです。(1)を正しく知ると言い(2)を倒錯と言います。倒錯とは執着の状態を言います。

ここのところは非常に込み入っていて、迷路のようです。人は一生をそこで遊んでしまうこともできるほどなのです。もし人が執着を語ることがあるなら、その仕組みと、その働きを示さねばなりません。じつにそうでなければ人はまだそれが自分をどのように捕らえているか知らないということだからです。

ここで最大の誤りは、「煩悩は解脱のことである」あるいは「自然にしていれば人はそれで良い」ということです。これでは執着のある理由を全く無にしています。それさえ人の自己のために働くのを忘れています。執着とは自己の揺籠であり、別名を自己保存といいます。

自己保存とは面白い名前で、人が自己でないためにそれ自身を守るという、悪くいえば実に欺きの名前で、よく特長を現しています。それは決して自己を守っているのではありません。いわば人が自己になる可能性を守っているのです。

それは仮の自己であり、それ自らがそれを守っています。その場合自己はまだありませんから、それが自己の替わりを努めます。このことが人は身体や感覚や感情や意識を自己と思い込むという原因になっています。(ただ実際にはそのようなことができる人はいません。そうできた人を気違いというのだとわたしは思います)。

このうえで仮の自己は自分自身を守るために働きます、人が自己になるまではそのようです。それでこの自己保存を押さえ込んででしまうこと、あるいは忘れることは、あまり利口な方法ではありません。人が自己になる可能性をも押さえ込み、忘れていることになりやすいからです。

もちろんなりやすいというだけのことで、そうなってしまうことは殆どありません。これが人の人である所以です。この仮の自己が自己保存するやり口を見ること、つまり理解することは困難かもしれないけれど巧妙な迷路を解くような面白さがあります。

もし人がこれを理解しなければ人は自分のなかで迷っているといっても言い過ぎではありません。これは執着ということも一つの方法です。みずからを義とすることも一つの方法です。自由を求めるということも一つの方法です。
posted by Ryo1151 at 17:43| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

欲=動機。

自己を知らない宗教は倒錯の宗教です。
欲の宗教です。なにかが欲しい、極楽、天国に生きたい、みな欲の宗教です。無知であることも同じです。それらは何かを基準にしているのだと思います。

感情とか、意識とか、感覚とか。そして何か対象物を持っているでしょう。自力であれ他力であれ同じです。仏教であれキリスト教であれ同じことです。この意味ではたしかにどの宗教も同じです、どれでも同じです。

ところで人は日常で思うことがあると思います。金が欲しい、地位が欲しい、自分を人に認めさせたい、なんでもいいのですが、そのことは一体なんであろうか、これを考えることは大切です。それは自己の叫び声です。ふつう人はそういうことが必ず与えられています。必ずなにかあります。必ず人が捕らえられているものがあります。それが役に立つのです。それが、この世界で学ぶことの始めです。

なぜ、倒錯が欲なのか。それは自己以外の物に依り頼むことを欲というからです。

神がこの世界に拠り所を持つだろうか。この世界が神に拠り所を持つのです。自己はこの世界の何者にも依り頼んではいけません。

自我が有るということ、欲があるということ、それには意味があり説明できることです。そうでなくてどうしてそれがあると言えるでしょう。

ただ、自我を捨てよう、こんなことだけでは意味がありません。自我がなぜあるのか理由を示せなくては、自我について人に言ってはいけません。


人はこの世界のなかで生きています。人が自分の廻りを見渡すと、総べてが物です。これは面白いことです。そのどれかに人は欲を持つようになっています。この世界がこぞって人のために自我を提供しています。

そして自我とは自己の例え話です。それは否定するものではなく、いわば成就されねばならないのです。

ところで例えばこの世界の楽しみとかを求めると、人は永遠の命を望むかも知れません。この世界の楽しみを欲すると命に執着するということです。しかし人が命を求めることを目的とすると、どうでしょう、この世界の喜びを求めるでしょうか。

これは不可逆です。でもと言うか何と言うか、この世界の楽しみを求めることから命を求めることが始まるなら、始めの動機はともかくとして目的は、そのことは良いことです。

そして命を人は、この世界のものを得ることで得ることはないでしょう。(しかしイエス・キリストは言っています。わたしは命なり、蘇りなり、と)。

人は生きていて楽しむこと平安であること、そんなことによって、まず命の大切さというか、それを望むことを知ります。そのままではきっとまだ命の例え話しか与えられてはいないのでしょうが。それでもそれを得られるということが期待できるのです。
つまりこの世界の楽しみが原因になって望まれたことでも、それには頼らずに、ん−と、動機と結果は違うけれど、そのことに充分に正当性があるのです。考えてみれば人が自己であろうとすることもおなじです。

人は自己であることを目的とすると、実際この世界のものを求めることによってはそれは無理であろうということを知ります。始めは自己顕示欲でも自己主張でも何でもいいのです。それは欲であり、それは倒錯であり、それは自己以外のものを拠り所とすることであり、それは自己であろうとすることの始まりです。

それは自己の影であり、幻であり、夢であります。悪魔の領域です。ほとんどの場合、対象を求めるということは自己保存を呼びおこしますし、自己保存は悪魔の領域にありますが、自己保存を人が目的にするならば対象を求めることによっては不可能であることは人に知れるのです。

それは不可逆です。ただ愚かな人のみが可逆的なことだと思い違いします。そして多分おおくの人が愚かなままです。物に対する欲、そして自分に対する欲、これらがあります。

いわば欲によって自己であろうとすることは始まりますが、自己であろうとして欲することはできません。それは確かに欲によって自己は始まろうとしますが、それは同じものではありません。ですから欲の解放も制御も否定も無意味です。欲とは触媒のようなものです。

目的と手段はここでは明らかに違うのです。人はこの世界のものに欲することによって自己であろうとする動機を与えられます。そして人が自己であろうとするなら、この世界のものを欲することによっては得られないのです。欲とは手段というより動機と言ったほうがわかり易いでしょう。


posted by Ryo1151 at 07:36| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月23日

知らないということについて

知らないということについて。なにか良いことがあって人は喜びます。辛いことがあって人は落ち込みます。ひとりでいて淋しいかも知れません。しかしその例えば感情、それを人は何であるか知りません。ほんとうにそれは何でしょう。

そんなことを言ったら人が知っているものはないじゃないかと人は言うかもしれませんが、そうなのです。ビールを飲んで旨いという、そのことさえ何のことかわからないのです。それなのに人はそれに捕らわれたり、人は人を嫌ったり好きになったりします。自分の知らないものに依存しているのです。

あるいは知らないのにそれから逃れようとします。ひとりでいて淋しいから友達と一緒にいようとかします。いったいなんでしょうか。それは淋しさというものが解決されたということではないのに。

人は地位や名誉や金を求めるかも知れません。けれどそれがなんであるか人は知らないのです。ところである人は人に調子を合わせようとする人でした。それは自己保存を基にしていました。ある人は人を計る人でした。それも自己保存を基にしていました。そういうものです。

どっちにせよ、人に調子を合わせるということにせよ、人を計ることにせよ、自己保存にせよ、人は知らないのです。それなのにそれに依存します。そしてその自己保存の自己とはこの世界での生活、身体のことであることがおおいいのです。(あるいは人が自己保存に捕らわれるのは、人が自己保存を実現してないということです)。

しかも人はそれを知らず、それらは人から隠れているのです。人は人の知らないものに過剰に捕らわれるいわれはありません、なのにとらわれるとするなら、そこに意味があります。その人がまだ自己ではないということです。

あるいはまたそのことを無視するなら同じこと、その人が自己ではないということです。人はいいます。あなたを、お前を、愛している、言います。けれど人はそのことを知らないことがおおいいのです。取り敢えず、それは夢ですから。

わたしにしてもこの世界とは何だろう、考えます。これやっぱり自己保存です。人は地位や名誉や金を求めます。これ、やっぱり自己保存です。執着ともいいます。自己に執着するから、そのようなものを求めるのです。

けれど、それは本当の、本当に自己を求めているのではありません。却って逆の方向にあります。まだ人は自己では在りませんから、取り敢えず外に求めるということで自己を求めようとするのですが、実際は、自己を求めようとしているのです。

けれどそのことを忘れがちなのでしょう。人が執着する時には対象にではなく、執着していることに執着するということは正しいのではないでしょうか。さて、人はそのどれも知りません。それなのに過剰に捕らわれるのは、あるいは過少に捕らわれるのは、人がまだ自己ではないということではないでしょうか。

さて、例えばこの世界のどんなものも人の所有ではありません。だからといって人のものを盗んだら、これやっぱり悪いことです。このことは一体なんでしょう。わたしには理由がなく悪いことは悪いというように見えますが。これはまず前提、どんなものも人の所有ではないということが間違っているのでしょうか。

このまえ話した自由のように。あるいはもっと単純に、人の所有でもないものを盗むということは、自分の所有にするということなので、それが誤りであるということかも知れません。あるいは所有とか権利とか、そんな関係の中にはいることが悪いのかもしれません。盗んではいけないということは、神がモーゼに伝えた十戒、そのなかの一つです。

なにか人のものでも欲しいということは人にあるでしょう。そのことは何故あるのか、悪はなぜあるのか、これは何故なんだろうと人は思うこともあるでしょう。それは、人はこの世界に所有などないということを教えることでしょうか。どうでしょうか。

しかし人が物を所有すること、これも大切というか、どうしょうもない人の本能みたいな感じもします。神は特に所有を否定してはいないと思います。(わたしは聖書の神がイスラエルに約束の地とか子孫とかを与えると約束したことをどうも不思議に思っていました、それって現世利益だからです。しかしそれは多分神が人の自己を大切にするなら、人の生活も大切にするということでしょう)。

それに無所有を教えるためなら、人がこの世界に生きる理由もないのではないかと思えます。(もともと所有というものがなければいいではありませんか)。では所有したいという、その基になるものはなんでしょう。多分、自己保存です。(ただの欲の場合もあるでしょうが、おなじようなことです)。

さて自己保存とは普通は本能とか、倒錯とか、執着のこととして言われます。ここの話では盗むことによって、自己保存が人にあることが現れました。あるいは自己保存が人のものを盗むということによって隠れていながら有る、(実際そこにはなく、ただ隠れてあるという仕方で有るのかも知れません)。

この場合の自己保存とは生活とか身体とか欲とかを満足させることでしょう。このようにしてある種の自我があることが現れます。しかしわたしは言います、本当の自己保存とは人が自己であるということです。

で、なぜ盗んではいけないのかということから教訓が得られます。たとえば、盗んではいけないということは、ただ信じれば良いというわけではない、ただ行えばよいということではない、理解しなければいけないのです。

そうでなければ人にはまだ欲があり、それを抑えるだけでは、それが無いという訳ではなく、人はまだ自己ではないだろうからです。また人の内には、良いこと悪いことの区別は始めは理由もわからないかも知れないけれど確かにそれが有るし、それを大切にすべきなのです。

もし盗むなということが良いことか悪いことか分からずにただ従うだけなら(あるいはただ従わないだけなら)それから何を学べるというのでしょう。もし聖書が総べてであれば人の生きる意味がないではないですか。

ん−と、さて、盗んではいけないということで自己保存を抑えてしまって、それで終わりにしてはいけない。つまり対象物を得ないこととして、その動機である自己保存を抑えてしまうだけではいけない。人は自己であらねばならないということです。

たしかに自己保存は悪魔の領域にあります。けれど人が自己であるということは、そのことさえ人の役に立つように作られているのです。もし悪が必要ないなら始めからなければ良いではないですか。(人が作られた始めにはなかったのでしょうが、今はあるのです。あるのですから、ただそれを避けるだけでは不十分と思います。もしそれが本当に役に立たず無いほうが良いのなら、ないはずです)。

それは自己の夢、例え話なのです。このような見方、つまり盗んではいけないということは、人よ自己であれということであるという見方は、誤っているでしょうか。もし誤っているなら神はなんのためにそう言われたのでしょう。ほんとうに人の知る必要のないこととして言われたのでしょうか。

ところで律法学者から、戒めのなかでどれが一番大切ですかと聞かれた時、イエス・キリストは「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せ」「思いをこめ心をこめ精神をこめて神を愛せ」こう言っています。

それはただなんとなく選んだのではないのです。すべての戒めの意味を知って言ったのです。おそらく十誠にはそれを守るというだけよりも、はっきりした意味があるのではないでしょうか。

タグ:哲学 学問
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2010年04月22日

まだ悪魔の領域

さて、人がこの世界に生まれて、どのようなものが彼にあるだろうか。物心(これは面白い言葉です)が付いた場合、意識とか感覚とか感情とかは、改めて考えてみることもなく、人には普通に備わっていると思います。

このことに普通は疑問を持ったりもしないのですが。ですが愛や信仰や自由が人として生まれただけで備わっていると思うとしたら、とんでもない思いちがいです。人はこの世界でそれを学ばねば得ることはありません。(もし人に最初からそれがあるとしたら何のための命でしょう)。

しかもその学ぶ方法は非常に奇妙な仕組みによっています。人はそれが自分にないのに関わらず、あると思い、それゆえに苦痛があります。それを解決するまでは人はそれを知りません。

たとえば愛は、ない場合、感情とか意識とかが代理をします。そうしてそれ、愛が人にあるかのように振る舞います。しかしないのです。それは蜃気楼かも知れません。でもそれは人を取り敢えずは一歩でも前に進ませるのです。

けれどこの仮のものに人は捕らわれやすいのです。これを執着といいます。これもまた人の自己、これがまだない(からな)のです。人は自己を探しても見つからないかも知れません。それはまだ彼にないのです。これも人がこの世界で学ぶものなのです。そうしてこれもない場合、やはり感情とか意識とかが代理をします。(このような状態にあることを自我と呼ぶようです)。

この自我を否定することは困難です。それは実際にまだ無いものを核としてあるのです。ほんとうにそこには自己がないために自我があるのです。これを本当に否定できるのは自己がある場合だけです。(この世界に苦痛がなければシックルタは仏陀になり得ませんでした、そして苦痛であったのは彼がまだ仏陀で無かったからです)。

ところでこのようなことに関係していると思われることをわたしは観察します。ある人がいて彼は随分自分勝手な人です。それはいろいろな行動に現れます。そして彼がそのようで在り続けるということに観察があります。ある見方からすると彼は他人が自分のそのようなことをわからないと見なしているのです。

そうしてそう見なすということはその部分が自分にとっても麻痺しているのです。そのような麻痺があるために彼は自分勝手な人であり続けます。しかし彼がもっとも自分であろうとして深く根差しているものはこの麻痺です。(この麻痺を無知とも呼ぶようです)。

ある人は他人を物差しで計る人です。おなじことが起こっています。かれは自分の家族に欲を持って(まだ愛のない状態では、たとえば感情がその代理をします、それを欲とよびます)「家族は無条件に愛す」こういうことを公言して恥ずかしく感じません。

またある人は他人に併せようとしていました。他人はそれ自身で何かについて確かにそう思っているのだから、自分がその意見に合わせても、なんの悪いことはないという併せかたです。彼は賢くあろうとして愚かでした。それが彼を悩ませていました。

これらは偶然であるかもしれません。けれどある種のバターンがあるようです。人は自分の麻痺しているところに捕らわれますが、その現れでそれが何であるか、自分で判断できる何だかのパターンがあるようです。ここには人の在り方の依存関係のようなものがありそうです。

ところでこのようなこと、だれしもあるものだと思われるでしょう。その通りです。それは人がまだ自己でないために起こることではないでしょうか。そこには自己の代理である自我があるのです。

ところで信仰について人は「人は神が必要だ、何か人は頼りにしたいのだ」こんなことを言うことがあります。まったく、そう、人はこの世界のものを頼りにすることはできません。しかし神がなにか物のようなものなら、それも意味がありません。信仰のない人はそのようなものです。まだ本当に信仰がないために代理の信仰がそこにあるのです。

そこにそれがないのに、それを否定しているのです。そこにそれがないから否定するというのは当たり前なのですが、これは逆説的です。代理が主人を否定するのです。代理は主人でありませんから当たり前なのです。これは秘密です。否定することによって、代理は在りえているのですが、それは主人がまだいないからです。

これは全く理論的に誤りではありませんが、けれど実際そこに信仰がないことが誤りなのです。そうしてなぜ誤りであるかといえば代理だからです。そうしてこのような仕方で人はそれを得るのです。神に祈るかも知れません、良い行いをするかも知れません。けれど、まず代理の信仰が人にあります。代理の自己があるからです。

この世界は仮の世界とも言われます。この世界は幻ともいわれます。そう、人が自己ではなく代理であればその通りです。人は生まれたままではまだ自己ではありません。ですから無知であって当たり前です。代理がいて(これは余りにも過剰な恵みです、人は甘やかされています、ですから執着に止まることもできるのです)あたり前です。

ふつう代理という場合はなにかがあってその代理があるのであるが、人の場合はまず代理が与えられているのです。しかもそれがどのような意味でも主人ではないことを知って、それを得るのです。与えられるのです。この言い方は変かも知れません。でもね、意識とか感情とか感覚とかだって自分で作ったものではないでしょう。それに自我があるということ、それは自己があることなくては意味がないではないですか。


ところで人は、この世界に生まれます。ここでわたしは例え話をしようと思います。その人は生まれたばかりでまだ特になにも知りません。しかし成長していく過程で、この世界にはお金持ちとか有名人とか英雄とか権力者とか芸術家とかがあるのに気づきます。

しかしその人にはまだ力がなく夢見ることしかできません。どうでしょう、この場合は人にまず夢が与えられるのです。そうして努力とか運とかが始まるのです。面白いとは思いませんか。まず現実ではなく、夢なのです。

さてこれは例え話です。つまり現実は例え話なのです。だって誰でも具休的に言わねば例え話にはならないではありませんか。ということは別にして。このことは人の自己の例え話です。このことは人はあまり認めたくないでしょうし、だれも聞いたことはないでしょうが、人は生まれたままでは自己ではありません。

で、まず夢が与えられます。これが自我とか執着とか言われるものです。それはもっと多くを強さを求め続けるという特性をもっています。夢とはそういうもののようです。

ところでこの自我とか執着とかは夢ですが、具体的なので、これはかなり人を迷わします。人が生まれるということは人よ自己であれということなのですが、人は代わりにこの世界のものを求めるのです。感情の愛とか、物質信仰とか自由の感覚とか、いわば欲と呼ばれているものです。

それは世界に対象を持ち理由を持ちます。ふつうには前者は物と後者は心と呼ばれますが、どちらも自己の対象になる物にすぎません。

さて、この夢を人が現実に実現することに非常な困難をともなうし、いくら頑張っても満足しないのも、それが夢であるからです。もしそれが本当に実現されてしまって満足してしまったとしたら、それは夢であることはできなくなるではありませんか。夢であることの役割をそれでは果たせないではありませんか。

あるいはまた飽きてしまうようにできています。で、人はどんな人でもそれを夢であることを密かには知っています。これこそ人たるゆえんであります。というよりも人のなんだかの欲望は成就されたとしても人を満足させることはできないようにできていると思います。

また人が何かを欲望していても苦痛であり、無限に求め続けなければいけないような感じがするのは、それが夢として作られているということではないでしょうか。人はこの世界に決して満足するということはないでしょう。世界は人に対して、そのような役目を持って作られているのではないでしょうか。

ところで問題があります。ここで自我とか執着を否定しようとすることもあるでしょう。これは問題です。それらは幾ら具体的に見えても仮のものですから、否定しようとすることもあるでしょう。しかしただそれを否定するだけでは本来の自己が現れる保証はなにもありません。

というのも夢見ているうちはまだ自己はそこにも、どこにもないからです。ただこの否定しようとすることさえ人が行うことは希です。この恐れがあるからでしょう。そういう人、自分のタラントを銀行に預けることさえ出来ないでいる人が、おおいいのです。

ところでこの否定は困難です。もちろんそのことにも意味があります。否定し続けると自己はまだ現れない状態であるからです。つまり自己が現れたいために自我の否定は困難になるのです。

これは否定してはいけないから否定することが困難でもあるのです。これは苦行であり人がまだ悪魔の領域にあるということです。自己をさえ否定しようとすることだからです。



posted by Ryo1151 at 19:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月21日

例え話…ある、ない。

ところで人は、この世界に生まれます。ここでわたしは例え話をしようと思います。その人は生まれたばかりでまだ特になにも知りません。しかし成長していく過程で、この世界にはお金持ちとか有名人とか英雄とか権力者とか芸術家とかがあるのに気づきます。

しかしその人にはまだ力がなく夢見ることしかできません。どうでしょう、この場合は人にまず夢が与えられるのです。そうして努力とか運とかが始まるのです。面白いとは思いませんか。まず現実ではなく、夢なのです。

さてこれは例え話です。つまり現実は例え話なのです。だって誰でも具休的に言わねば例え話にはならないではありませんか。ということは別にして。このことは人の自己の例え話です。このことは人はあまり認めたくないでしょうし、だれも聞いたことはないでしょうが、人は生まれたままでは自己ではありません。

で、まず夢が与えられます。これが自我とか執着とか言われるものです。それはもっと多くを強さを求め続けるという特性をもっています。夢とはそういうもののようです。

ところでこの自我とか執着とかは夢ですが、具体的なので、これはかなり人を迷わします。人が生まれるということは人よ自己であれということなのですが、人は代わりにこの世界のものを求めるのです。感情の愛とか、物質信仰とか自由の感覚とか、いわば欲と呼ばれているものです。

それは世界に対象を持ち理由を持ちます。ふつうには前者は物と後者は心と呼ばれますが、どちらも自己の対象になる物にすぎません。

さて、この夢を人が現実に実現することに非常な困難をともなうし、いくら頑張っても満足しないのも、それが夢であるからです。もしそれが本当に実現されてしまって満足してしまったとしたら、それは夢であることはできなくなるではありませんか。夢であることの役割をそれでは果たせないではありませんか。

あるいはまた飽きてしまうようにできています。で、人はどんな人でもそれを夢であることを密かには知っています。これこそ人たるゆえんであります。というよりも人のなんだかの欲望は成就されたとしても人を満足させることはできないようにできていると思います。

また人が何かを欲望していても苦痛であり、無限に求め続けなければいけないような感じがするのは、それが夢として作られているということではないでしょうか。人はこの世界に決して満足するということはないでしょう。世界は人に対して、そのような役目を持って作られているのではないでしょうか。

ところで問題があります。ここで自我とか執着を否定しようとすることもあるでしょう。これは問題です。それらは幾ら具体的に見えても仮のものですから、否定しようとすることもあるでしょう。しかしただそれを否定するだけでは本来の自己が現れる保証はなにもありません。

というのも夢見ているうちはまだ自己はそこにも、どこにもないからです。ただこの否定しようとすることさえ人が行うことは希です。この恐れがあるからでしょう。そういう人、自分のタラントを銀行に預けることさえ出来ないでいる人が、おおいいのです。

ところでこの否定は困難です。もちろんそのことにも意味があります。否定し続けると自己はまだ現れない状態であるからです。つまり自己が現れたいために自我の否定は困難になるのです。

これは否定してはいけないから否定することが困難でもあるのです。これは苦行であり人がまだ悪魔の領域にあるということです。自己をさえ否定しようとすることだからです。




さて、イエス・キリストは例え話によらずには人に語りませんでした。例え話とは人にあっては、この世界です。それは人生の物語であり、そこから意味を汲み取るものです。もし誰かがわたしに、現実とはなんですか?聞いたとします。やっぱりそれは例え話だと応えるでしょう。

けれどその人はわたしのことを、とんでもない馬鹿と思うでしょう。ま、わたしはまだ現実とは何かなんて問う人に会ったことはないですが。さてこの、例え話は夢であるとこの前いいました。なぜそうなのか例をあげることができるかも知れません。主観と客観です。手段と目的です。

このことに人は確かな規定をすることができるでしょうか。定義をすることができるでしょうか。あるいは何でもいいのですが、何かを定義したりすることができるでしょうか。たとえばワープロとは?それは文書作成機であります。では文書とは?作成とは?こうなるともうわからなくなります。

ところが面白いことに、ふつう人が定義できないと思っているものが、はっきりと書かれてあります。神とはなんでしょう。それは「わたしは在るといわれるもので在る」自身でこう言われています。どうですか。

さて、わたしが言います。現実とは、例え話です。言います。するとこれは定義ではありませんか。ところで定義とはなにかと、言うとまたわけわからないですが。なにか定義するといえば、なんとなく定義ということの意味はわかっているように思えるのです。
で、現実とは例え話であると言います。と、これなんとなくわかるのです。しかしはっきり意味がわかっていわれているわけではないことが多いのです。人はこのなかで生きています。それは主観だ、これは客観だ、こう言っても、ただなんとなくそう言うことが変でない、自然に聞こえるといことで言っているだけなのです。

このことにも意味があります。このことが実はわけわからないことだと知ることは人はあまりないのではないでしようか。すくなくとも人は人とこのようなことを話あったりはあまりしません。天気や景気の話は毎日でもわけも分からずするのですが。

ところで、初対面の人とでも話あえることとは、どんなことでしょう。学歴、職業、経歴、経験、遊び?どうでしょう、それって人と人とのほんとのコミニケーションではないのではないでしょうか。でも、人ってそれを喜びます。人というもの、なんとなくわかるという気がしているのです。そうではありませんか。これ、ほんとに何となくなのです。あるいはまったくわけわからずといってもおなじです。
posted by Ryo1151 at 19:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月20日

自我、自己

では実際、人は何に拠り所を持てばいいのでしょうか。
この世界のどのようなものに持ってももいけません。ただ神に持つペきです。ぶつぶつ言うとは神を知らないことの証です。ぶつぶつ言うとは仮の拠り所です。そうして実際に人は神を知らない限りそのような仮のものしか知りません。

そしてその限り人はぶつぶつ言うことを仮のものとしてしか見ることができません。その人は仮の根り拠しか持たないからです。実際その人には拠り所がないのです。

この世界のどのようなもの(自然、あるいは人、あるいは地位、名誉、金など)を拠り所にしようとすることは、本当の拠り所を知らないということであって、それはその人に明らかです。その拠り所をいくら否定しても肯定しても同じことです。その人にまだ拠り所がないのです。

ぶつぶつ言うとは信仰の代償行為ですが、その代償行為があるのも当たり前のこと、人に信仰がないのです。信仰がないからこそ代償行為があるのです。(たとえば愛と呼ばれている欲も、人に愛がないから、それがあるのです)。そうして人にそれがないことを知らせるために代償行為があるのです。

さて、人はなんによって生きているでしょう。自然の恵みに依っているのではありません。なぜならそれが人の生きる原因ではないからです。他の人がいるからではありません。人は自分一人で生きていけないといわれますが、ですから人は人のなかで生きていくということでしょうが、人が一人で生きていくとはどういうことでいわれるのでしょうか。

これは拠り所をすり替えています。うーむ、たしかに人は一人では生きていけない、人はなぜか納得してしまいますが、その時にはその前提となっている経済を黙認してしまっています。また両親でさえ人の生きる原因ではありません。地位、名誉、金も人の拠り所ではありません。それは拠り所と思わせるために、それが無限のものであるかの真似をしますが、それは人の生きる原因ではありません。(原因は拠り所ではありませんが、原因に拠り所を置かないで何に置くといえるのでしょうか)。

人が拠り所をこの世界の何かに持つことができるでしょうか。もし神がいなくてもいても、人が拠り所をもつなら、それは神にしかありません。

もし誰かがわたしに、神を信じているかと聞いたとします。それが存在するものを、どうして信じるのかと答えるでしょう。この言い方では、神を信じるとか信じないとか言うことは、その人が神を知らないということしか示さないということです。

ところでわたしがこのところ何をいおうとしているのか、かなり自分でも難しいのです。この世界の在り方の特長として「覆水盆に帰らず」ということがあります。なにかが起こるとそれは決定されたものとなります。これはこの物の世界で決定されるということが行われるのです。

けれど、実際この世界は幻のように変化します。なに一つ止まることはないと言われます。するとこういう言い方ができます。この世界は決定するために変化すると、言えます。もちろんこの世界のなかにあってのことですが、人がなにかをすることはそれを決まったこととします。

たとえば人が結婚するということは結婚するということです。頭のなかでいろいろ妄思することがあるかもしれませんが、結婚したとしたらもう、間違いなく、結婚したということです。これ、意味があります。それを事実とするということです。で、そうしたということはもう自分でしたことですから(妄想とは違いますから)そうすることには離婚しないとか浮気しないとか仲良く暮らすとかいうことが含まれてあると思います。

それでなければこの世界の決めるということ決定するということ現実にするということが意味ないと思います。この世界にはこのような、何かを決めるということがあります。それなのにこの世界は幻のように変化します。この世界は全く止めるものもないからこそ現実のものにする、決まったものにするということができるのかもしれません。

また、人は生まれたままでは愛を知りません、自由を知りません、神を知りません。この世界でそれを学ぶのです。それを学ばないなら、多分生まれたままで在るところの感情や意識が代償をします。そうしてそのような仕方で、まだ無いということを知るのです。そうして得るのです。

この世界は人のためにあるのです。たとえば仏陀が世界は苦痛であると、この世界を避けたとするのは誤りです。もし世界が人をして仏陀にならしめる用意がなければ絶対に人は仏陀になれないのです。この世界は人のためにあるのです。

たしかに人が自分の感情や意識に倒錯し代償行為をするとしても、人が誤るとしても、その誤りも人のためにあるのです。誤りがあるということさえ無意味ではないのです。たとえば人が愛について誤るのは人が愛を知らないということです。人に愛がないということです。

それはその人にないだけです。ないからといって愛を否定してはいけません。誤っていることはすでに否定していることです。しかもそれはないからです。それはあたりまえで人は生まれたままでは愛を知らないからです。



さて、人がこの世界に生まれて、どのようなものが彼にあるだろうか。物心(これは面白い言葉です)が付いた場合、意識とか感覚とか感情とかは、改めて考えてみることもなく、人には普通に備わっていると思います。

このことに普通は疑問を持ったりもしないのですが。ですが愛や信仰や自由が人として生まれただけで備わっていると思うとしたら、とんでもない思いちがいです。人はこの世界でそれを学ばねば得ることはありません。(もし人に最初からそれがあるとしたら何のための命でしょう)。

しかもその学ぶ方法は非常に奇妙な仕組みによっています。人はそれが自分にないのに関わらず、あると思い、それゆえに苦痛があります。それを解決するまでは人はそれを知りません。

たとえば愛は、ない場合、感情とか意識とかが代理をします。そうしてそれ、愛が人にあるかのように振る舞います。しかしないのです。それは蜃気楼かも知れません。でもそれは人を取り敢えずは一歩でも前に進ませるのです。

けれどこの仮のものに人は捕らわれやすいのです。これを執着といいます。これもまた人の自己、これがまだない(からな)のです。人は自己を探しても見つからないかも知れません。それはまだ彼にないのです。これも人がこの世界で学ぶものなのです。そうしてこれもない場合、やはり感情とか意識とかが代理をします。(このような状態にあることを自我と呼ぶようです)。

この自我を否定することは困難です。それは実際にまだ無いものを核としてあるのです。ほんとうにそこには自己がないために自我があるのです。これを本当に否定できるのは自己がある場合だけです。(この世界に苦痛がなければシックルタは仏陀になり得ませんでした、そして苦痛であったのは彼がまだ仏陀で無かったからです)。

ところでこのようなことに関係していると思われることをわたしは観察します。ある人がいて彼は随分自分勝手な人です。それはいろいろな行動に現れます。そして彼がそのようで在り続けるということに観察があります。ある見方からすると彼は他人が自分のそのようなことをわからないと見なしているのです。

そうしてそう見なすということはその部分が自分にとっても麻痺しているのです。そのような麻痺があるために彼は自分勝手な人であり続けます。しかし彼がもっとも自分であろうとして深く根差しているものはこ
の麻痺です。(この麻痺を無知とも呼ぶようです)。
ある人は他人を物差しで計る人です。おなじことが起こっています。かれは自分の家族に欲を持って(まだ愛のない状態では、たとえば感情がその代理をします、それを欲とよびます)「家族は無条件に愛す」こういうことを公言して恥ずかしく感じません。

またある人は他人に併せようとしていました。他人はそれ自身で何かについて確かにそう思っているのだから、自分がその意見に合わせても、なんの悪いことはないという併せかたです。彼は賢くあろうとして愚かでした。それが彼を悩ませていました。

これらは偶然であるかもしれません。けれどある種のバターンがあるようです。人は自分の麻痺しているところに捕らわれますが、その現れでそれが何であるか、自分で判断できる何だかのパターンがあるようです。ここには人の在り方の依存関係のようなものがありそうです。

ところでこのようなこと、だれしもあるものだと思われるでしょう。その通りです。それは人がまだ自己でないために起こることではないでしょうか。そこには自己の代理である自我があるのです。

ところで信仰について人は「人は神が必要だ、何か人は頼りにしたいのだ」こんなことを言うことがあります。まったく、そう、人はこの世界のものを頼りにすることはできません。しかし神がなにか物のようなものなら、それも意味がありません。信仰のない人はそのようなものです。まだ本当に信仰がないために代理の信仰がそこにあるのです。

そこにそれがないのに、それを否定しているのです。そこにそれがないから否定するというのは当たり前なのですが、これは逆説的です。代理が主人を否定するのです。代理は主人でありませんから当たり前なのです。これは秘密です。否定することによって、代理は在りえているのですが、それは主人がまだいないからです。

これは全く理論的に誤りではありませんが、けれど実際そこに信仰がないことが誤りなのです。そうしてなぜ誤りであるかといえば代理だからです。そうしてこのような仕方で人はそれを得るのです。神に祈るかも知れません、良い行いをするかも知れません。けれど、まず代理の信仰が人にあります。代理の自己があるからです。

この世界は仮の世界とも言われます。この世界は幻ともいわれます。そう、人が自己ではなく代理であればその通りです。人は生まれたままではまだ自己ではありません。ですから無知であって当たり前です。代理がいて(これは余りにも過剰な恵みです、人は甘やかされています、ですから執着に止まることもできるのです)あたり前です。

ふつう代理という場合はなにかがあってその代理があるのであるが、人の場合はまず代理が与えられているのです。しかもそれがどのような意味でも主人ではないことを知って、それを得るのです。与えられるのです。この言い方は変かも知れません。でもね、意識とか感情とか感覚とかだって自分で作ったものではないでしょう。それに自我があるということ、それは自己があることなくては意味がないではないですか。



posted by Ryo1151 at 22:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自我

たとえば人は世界のどこでも歩いていける。けれど権力があって、そうしてはいけないと言う。すると人は自由を求める。我々に自由をと言う。この自由はしかし言葉の持つ本来の意味での自由ではない。それは実は不自由であるというより、この場合は権力に反してある自由であるという意味だ。人が自由を求めるのは大方このようなことです。

現代では、権利と言ったほうが通りが良いかも知れませんが、行動の自由、思想の自由、言論の自由、経済の自由、選ぶ自由、拒否する自由、表現の自由。その自由を得ることがあって、また得ないことがあって、人は満足、不満を持つかも知れない。けれどこの自由は本来の意味での自由ではない。

さて、このようなことは穿った見方かも知れないけれど、本来の自由を隠すために、何だかの自由が争われるといってもいいでしょう。しかしそれでも自由を求めると、この仮のものと本来のものが見えるはずです。なのに人はすぐ近くに見えるものに拠り所を持つのです。

聖書のなかでモーゼがイスラエル人をつれてでて幾多の奇跡を見せたに関わらず、人々は荒野でぶつぶつ言ったと書かれています。ぶつぶつ言うとは人が人を拠り所とすることです。なんの権利も力もない人を、人が拠り所とすることです。

では権利とか力とかがある人を拠り所とするのならいいのではないかという議論がでできます。そして実際そうする人がいます。それが誤りであるのに。その人にはちゃんとした根拠とか理由とかがあるわけです。でもそうする人自身、どんな人になっているでしょうか。おべっか使いになっていませんか、人の顔を窺う人になっていませんか。

そのようなことは自分で分かるのではないでしょうか。この世界では、どうしても自分のすることは自分で分かるようにできています。このぶつぶつ言うことは現代では会社の上役とか同僚とか部下について不満を言い合うとか、他人とか隣人とか親戚とか兄弟とか親とか子について本人のいない所で不満をいいあうとかいうことが含まれます。

それは人に拠り所を持とうとすることです。ところが実際には人は人に拠り所を持つことはできません。実際そうなのです。ですからそれは仮のものになります。これは悪魔の楽しみしみです。(それは実際に隠れて行われ、また人が真実の拠り所をもつペきものであることを人に隠します。けれど人は自分のしたことが見えるのです。そうして人がそこではまだ拠り所をもってないことを人に知らせます)。

また、たとえば世の母や父は子を愛していると自分たちでも思っています。でもそれは欲なのです。欲は対象を限定し疎外的です。教育します、躾します。けれどそれが人の総べてではありません。なぜ人の僅かな部分を左右しようとするのでしょう。それは無理無理に人とはそんなもので価値が決まると子に押しつけようとすることかも知れません。母が子を叱って言います。愛しているからだと、言います。

ま、何でもいいのですが人には自分の言ったことが聞こえるし、したことが見えます。けれど気がつかないことがおおいいのです。わが子だけはというのは欲であって愛ではありません。どうして怒ったり苛めたりすることが愛なのでしょう。しかも欲とは自分の欲なのです。

このことは自分で見えることなのです。でも毎日おなじことを繰り返します。自分に愛のないのを見るのは怖いのかも知れません。けれど人が愛を知るのは、まず無いということを知ることから始まるのかも知れないではないでしょうか。

ね、生まれて初めから愛を人が知っているのなら、人が誤る必要もこの世界にあるわけないではありませんか。

では猫可愛がりにすることが愛ではないかと思うということ、行うということがあるかもしれません。また愛は範囲を狭めてはいけない、ならば自分は人に対しては博愛をすると、こう考える人もいるでしょう。子に対しては放任主義にすると思う人もるでしょう。それもまず誤った前提のうえになりたっています。まず誤った愛のうえに立っています。

それを否定しつつ、その上に立っているのです。それは本来の愛を見えなくするために働きます。(けれど実際そこに愛は無いのです)。(そこに無いことに気づかせるために、本来の愛を見えなくするといってもいいのです)。これは非常に人を迷わせます。どちらをとっても誤りです。

しかし愛という言葉が語られる時には仮のものも本来のものも、どちらの意味もあるのです。違うものを愛と思うのはもちろんのこと。誤って、誤った愛を否定するついでに真実の愛も忘れてはいけません。自由の場合も同じですが、まず誤ったそれを求めて、自分がどんな意味でも自由ではないことに気づき、やっとそれを求めることができるのです。

本来の自由を隠すために自由が争われますが、そこにはまだ本来の自由がないのです。それは始め隠れたものとして現れ、人に与えられるのです。(あるいは人が仮の自由を得たとします、それは飽きるようにできています。仮の愛を得たとします、そこに苦痛があるように出来ています)。

形式としては次のようになります。まず誤った自由が求められます。それに対立しつつ前提として人はまた誤った自由を考えます。ところがそれは本来の自由ではありません。なぜなら人にはまだ、それがないのです。誤ったものを否定することによって真実のものが現れますが、それはそのような仕方で与えられるのです。それまで人に無かったものが与えられるのです。

それまでは人に予め与えられているもの、感情や意識などがそれの代行をします。「親分(つまり自我)、愛なんて要らないですよ、わたしがいますよ、だってもう他のものは入りませんよ」こう言うわけです。「わたしが愛の代わりをして充分ですよ、大丈夫、まっかせなさい」こう言うわけです。

「親分、わたしがいるから親分があるのですよ」こう言います。人はぶつぶつ言います。拠り所を求めているのですが、誤ったものに求めているのです。そのためにぶつぶついう人は人を拠り所にしていることを気づかなくされています。そういう形式でぶつぶつ言うことが成立するのです。

なぜそんなことをするのか、その根拠はあれでもないのだけれど、それでもない、いつも動いてなければ人に気づかれてしまいます。しかし人は自分のぶつぶつを聞くことができるのです。わたしには、この世界が成り立っている意味があると思います。この世界では人は人に親切でもなく無関係に生きていくことができます。それはそのようであってもよい理由があるのですが、良いことではありません。





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