2010年04月20日

自我、自己

では実際、人は何に拠り所を持てばいいのでしょうか。
この世界のどのようなものに持ってももいけません。ただ神に持つペきです。ぶつぶつ言うとは神を知らないことの証です。ぶつぶつ言うとは仮の拠り所です。そうして実際に人は神を知らない限りそのような仮のものしか知りません。

そしてその限り人はぶつぶつ言うことを仮のものとしてしか見ることができません。その人は仮の根り拠しか持たないからです。実際その人には拠り所がないのです。

この世界のどのようなもの(自然、あるいは人、あるいは地位、名誉、金など)を拠り所にしようとすることは、本当の拠り所を知らないということであって、それはその人に明らかです。その拠り所をいくら否定しても肯定しても同じことです。その人にまだ拠り所がないのです。

ぶつぶつ言うとは信仰の代償行為ですが、その代償行為があるのも当たり前のこと、人に信仰がないのです。信仰がないからこそ代償行為があるのです。(たとえば愛と呼ばれている欲も、人に愛がないから、それがあるのです)。そうして人にそれがないことを知らせるために代償行為があるのです。

さて、人はなんによって生きているでしょう。自然の恵みに依っているのではありません。なぜならそれが人の生きる原因ではないからです。他の人がいるからではありません。人は自分一人で生きていけないといわれますが、ですから人は人のなかで生きていくということでしょうが、人が一人で生きていくとはどういうことでいわれるのでしょうか。

これは拠り所をすり替えています。うーむ、たしかに人は一人では生きていけない、人はなぜか納得してしまいますが、その時にはその前提となっている経済を黙認してしまっています。また両親でさえ人の生きる原因ではありません。地位、名誉、金も人の拠り所ではありません。それは拠り所と思わせるために、それが無限のものであるかの真似をしますが、それは人の生きる原因ではありません。(原因は拠り所ではありませんが、原因に拠り所を置かないで何に置くといえるのでしょうか)。

人が拠り所をこの世界の何かに持つことができるでしょうか。もし神がいなくてもいても、人が拠り所をもつなら、それは神にしかありません。

もし誰かがわたしに、神を信じているかと聞いたとします。それが存在するものを、どうして信じるのかと答えるでしょう。この言い方では、神を信じるとか信じないとか言うことは、その人が神を知らないということしか示さないということです。

ところでわたしがこのところ何をいおうとしているのか、かなり自分でも難しいのです。この世界の在り方の特長として「覆水盆に帰らず」ということがあります。なにかが起こるとそれは決定されたものとなります。これはこの物の世界で決定されるということが行われるのです。

けれど、実際この世界は幻のように変化します。なに一つ止まることはないと言われます。するとこういう言い方ができます。この世界は決定するために変化すると、言えます。もちろんこの世界のなかにあってのことですが、人がなにかをすることはそれを決まったこととします。

たとえば人が結婚するということは結婚するということです。頭のなかでいろいろ妄思することがあるかもしれませんが、結婚したとしたらもう、間違いなく、結婚したということです。これ、意味があります。それを事実とするということです。で、そうしたということはもう自分でしたことですから(妄想とは違いますから)そうすることには離婚しないとか浮気しないとか仲良く暮らすとかいうことが含まれてあると思います。

それでなければこの世界の決めるということ決定するということ現実にするということが意味ないと思います。この世界にはこのような、何かを決めるということがあります。それなのにこの世界は幻のように変化します。この世界は全く止めるものもないからこそ現実のものにする、決まったものにするということができるのかもしれません。

また、人は生まれたままでは愛を知りません、自由を知りません、神を知りません。この世界でそれを学ぶのです。それを学ばないなら、多分生まれたままで在るところの感情や意識が代償をします。そうしてそのような仕方で、まだ無いということを知るのです。そうして得るのです。

この世界は人のためにあるのです。たとえば仏陀が世界は苦痛であると、この世界を避けたとするのは誤りです。もし世界が人をして仏陀にならしめる用意がなければ絶対に人は仏陀になれないのです。この世界は人のためにあるのです。

たしかに人が自分の感情や意識に倒錯し代償行為をするとしても、人が誤るとしても、その誤りも人のためにあるのです。誤りがあるということさえ無意味ではないのです。たとえば人が愛について誤るのは人が愛を知らないということです。人に愛がないということです。

それはその人にないだけです。ないからといって愛を否定してはいけません。誤っていることはすでに否定していることです。しかもそれはないからです。それはあたりまえで人は生まれたままでは愛を知らないからです。



さて、人がこの世界に生まれて、どのようなものが彼にあるだろうか。物心(これは面白い言葉です)が付いた場合、意識とか感覚とか感情とかは、改めて考えてみることもなく、人には普通に備わっていると思います。

このことに普通は疑問を持ったりもしないのですが。ですが愛や信仰や自由が人として生まれただけで備わっていると思うとしたら、とんでもない思いちがいです。人はこの世界でそれを学ばねば得ることはありません。(もし人に最初からそれがあるとしたら何のための命でしょう)。

しかもその学ぶ方法は非常に奇妙な仕組みによっています。人はそれが自分にないのに関わらず、あると思い、それゆえに苦痛があります。それを解決するまでは人はそれを知りません。

たとえば愛は、ない場合、感情とか意識とかが代理をします。そうしてそれ、愛が人にあるかのように振る舞います。しかしないのです。それは蜃気楼かも知れません。でもそれは人を取り敢えずは一歩でも前に進ませるのです。

けれどこの仮のものに人は捕らわれやすいのです。これを執着といいます。これもまた人の自己、これがまだない(からな)のです。人は自己を探しても見つからないかも知れません。それはまだ彼にないのです。これも人がこの世界で学ぶものなのです。そうしてこれもない場合、やはり感情とか意識とかが代理をします。(このような状態にあることを自我と呼ぶようです)。

この自我を否定することは困難です。それは実際にまだ無いものを核としてあるのです。ほんとうにそこには自己がないために自我があるのです。これを本当に否定できるのは自己がある場合だけです。(この世界に苦痛がなければシックルタは仏陀になり得ませんでした、そして苦痛であったのは彼がまだ仏陀で無かったからです)。

ところでこのようなことに関係していると思われることをわたしは観察します。ある人がいて彼は随分自分勝手な人です。それはいろいろな行動に現れます。そして彼がそのようで在り続けるということに観察があります。ある見方からすると彼は他人が自分のそのようなことをわからないと見なしているのです。

そうしてそう見なすということはその部分が自分にとっても麻痺しているのです。そのような麻痺があるために彼は自分勝手な人であり続けます。しかし彼がもっとも自分であろうとして深く根差しているものはこ
の麻痺です。(この麻痺を無知とも呼ぶようです)。
ある人は他人を物差しで計る人です。おなじことが起こっています。かれは自分の家族に欲を持って(まだ愛のない状態では、たとえば感情がその代理をします、それを欲とよびます)「家族は無条件に愛す」こういうことを公言して恥ずかしく感じません。

またある人は他人に併せようとしていました。他人はそれ自身で何かについて確かにそう思っているのだから、自分がその意見に合わせても、なんの悪いことはないという併せかたです。彼は賢くあろうとして愚かでした。それが彼を悩ませていました。

これらは偶然であるかもしれません。けれどある種のバターンがあるようです。人は自分の麻痺しているところに捕らわれますが、その現れでそれが何であるか、自分で判断できる何だかのパターンがあるようです。ここには人の在り方の依存関係のようなものがありそうです。

ところでこのようなこと、だれしもあるものだと思われるでしょう。その通りです。それは人がまだ自己でないために起こることではないでしょうか。そこには自己の代理である自我があるのです。

ところで信仰について人は「人は神が必要だ、何か人は頼りにしたいのだ」こんなことを言うことがあります。まったく、そう、人はこの世界のものを頼りにすることはできません。しかし神がなにか物のようなものなら、それも意味がありません。信仰のない人はそのようなものです。まだ本当に信仰がないために代理の信仰がそこにあるのです。

そこにそれがないのに、それを否定しているのです。そこにそれがないから否定するというのは当たり前なのですが、これは逆説的です。代理が主人を否定するのです。代理は主人でありませんから当たり前なのです。これは秘密です。否定することによって、代理は在りえているのですが、それは主人がまだいないからです。

これは全く理論的に誤りではありませんが、けれど実際そこに信仰がないことが誤りなのです。そうしてなぜ誤りであるかといえば代理だからです。そうしてこのような仕方で人はそれを得るのです。神に祈るかも知れません、良い行いをするかも知れません。けれど、まず代理の信仰が人にあります。代理の自己があるからです。

この世界は仮の世界とも言われます。この世界は幻ともいわれます。そう、人が自己ではなく代理であればその通りです。人は生まれたままではまだ自己ではありません。ですから無知であって当たり前です。代理がいて(これは余りにも過剰な恵みです、人は甘やかされています、ですから執着に止まることもできるのです)あたり前です。

ふつう代理という場合はなにかがあってその代理があるのであるが、人の場合はまず代理が与えられているのです。しかもそれがどのような意味でも主人ではないことを知って、それを得るのです。与えられるのです。この言い方は変かも知れません。でもね、意識とか感情とか感覚とかだって自分で作ったものではないでしょう。それに自我があるということ、それは自己があることなくては意味がないではないですか。



posted by Ryo1151 at 22:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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