2010年04月21日

例え話…ある、ない。

ところで人は、この世界に生まれます。ここでわたしは例え話をしようと思います。その人は生まれたばかりでまだ特になにも知りません。しかし成長していく過程で、この世界にはお金持ちとか有名人とか英雄とか権力者とか芸術家とかがあるのに気づきます。

しかしその人にはまだ力がなく夢見ることしかできません。どうでしょう、この場合は人にまず夢が与えられるのです。そうして努力とか運とかが始まるのです。面白いとは思いませんか。まず現実ではなく、夢なのです。

さてこれは例え話です。つまり現実は例え話なのです。だって誰でも具休的に言わねば例え話にはならないではありませんか。ということは別にして。このことは人の自己の例え話です。このことは人はあまり認めたくないでしょうし、だれも聞いたことはないでしょうが、人は生まれたままでは自己ではありません。

で、まず夢が与えられます。これが自我とか執着とか言われるものです。それはもっと多くを強さを求め続けるという特性をもっています。夢とはそういうもののようです。

ところでこの自我とか執着とかは夢ですが、具体的なので、これはかなり人を迷わします。人が生まれるということは人よ自己であれということなのですが、人は代わりにこの世界のものを求めるのです。感情の愛とか、物質信仰とか自由の感覚とか、いわば欲と呼ばれているものです。

それは世界に対象を持ち理由を持ちます。ふつうには前者は物と後者は心と呼ばれますが、どちらも自己の対象になる物にすぎません。

さて、この夢を人が現実に実現することに非常な困難をともなうし、いくら頑張っても満足しないのも、それが夢であるからです。もしそれが本当に実現されてしまって満足してしまったとしたら、それは夢であることはできなくなるではありませんか。夢であることの役割をそれでは果たせないではありませんか。

あるいはまた飽きてしまうようにできています。で、人はどんな人でもそれを夢であることを密かには知っています。これこそ人たるゆえんであります。というよりも人のなんだかの欲望は成就されたとしても人を満足させることはできないようにできていると思います。

また人が何かを欲望していても苦痛であり、無限に求め続けなければいけないような感じがするのは、それが夢として作られているということではないでしょうか。人はこの世界に決して満足するということはないでしょう。世界は人に対して、そのような役目を持って作られているのではないでしょうか。

ところで問題があります。ここで自我とか執着を否定しようとすることもあるでしょう。これは問題です。それらは幾ら具体的に見えても仮のものですから、否定しようとすることもあるでしょう。しかしただそれを否定するだけでは本来の自己が現れる保証はなにもありません。

というのも夢見ているうちはまだ自己はそこにも、どこにもないからです。ただこの否定しようとすることさえ人が行うことは希です。この恐れがあるからでしょう。そういう人、自分のタラントを銀行に預けることさえ出来ないでいる人が、おおいいのです。

ところでこの否定は困難です。もちろんそのことにも意味があります。否定し続けると自己はまだ現れない状態であるからです。つまり自己が現れたいために自我の否定は困難になるのです。

これは否定してはいけないから否定することが困難でもあるのです。これは苦行であり人がまだ悪魔の領域にあるということです。自己をさえ否定しようとすることだからです。




さて、イエス・キリストは例え話によらずには人に語りませんでした。例え話とは人にあっては、この世界です。それは人生の物語であり、そこから意味を汲み取るものです。もし誰かがわたしに、現実とはなんですか?聞いたとします。やっぱりそれは例え話だと応えるでしょう。

けれどその人はわたしのことを、とんでもない馬鹿と思うでしょう。ま、わたしはまだ現実とは何かなんて問う人に会ったことはないですが。さてこの、例え話は夢であるとこの前いいました。なぜそうなのか例をあげることができるかも知れません。主観と客観です。手段と目的です。

このことに人は確かな規定をすることができるでしょうか。定義をすることができるでしょうか。あるいは何でもいいのですが、何かを定義したりすることができるでしょうか。たとえばワープロとは?それは文書作成機であります。では文書とは?作成とは?こうなるともうわからなくなります。

ところが面白いことに、ふつう人が定義できないと思っているものが、はっきりと書かれてあります。神とはなんでしょう。それは「わたしは在るといわれるもので在る」自身でこう言われています。どうですか。

さて、わたしが言います。現実とは、例え話です。言います。するとこれは定義ではありませんか。ところで定義とはなにかと、言うとまたわけわからないですが。なにか定義するといえば、なんとなく定義ということの意味はわかっているように思えるのです。
で、現実とは例え話であると言います。と、これなんとなくわかるのです。しかしはっきり意味がわかっていわれているわけではないことが多いのです。人はこのなかで生きています。それは主観だ、これは客観だ、こう言っても、ただなんとなくそう言うことが変でない、自然に聞こえるといことで言っているだけなのです。

このことにも意味があります。このことが実はわけわからないことだと知ることは人はあまりないのではないでしようか。すくなくとも人は人とこのようなことを話あったりはあまりしません。天気や景気の話は毎日でもわけも分からずするのですが。

ところで、初対面の人とでも話あえることとは、どんなことでしょう。学歴、職業、経歴、経験、遊び?どうでしょう、それって人と人とのほんとのコミニケーションではないのではないでしょうか。でも、人ってそれを喜びます。人というもの、なんとなくわかるという気がしているのです。そうではありませんか。これ、ほんとに何となくなのです。あるいはまったくわけわからずといってもおなじです。
posted by Ryo1151 at 19:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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