2010年04月22日

まだ悪魔の領域

さて、人がこの世界に生まれて、どのようなものが彼にあるだろうか。物心(これは面白い言葉です)が付いた場合、意識とか感覚とか感情とかは、改めて考えてみることもなく、人には普通に備わっていると思います。

このことに普通は疑問を持ったりもしないのですが。ですが愛や信仰や自由が人として生まれただけで備わっていると思うとしたら、とんでもない思いちがいです。人はこの世界でそれを学ばねば得ることはありません。(もし人に最初からそれがあるとしたら何のための命でしょう)。

しかもその学ぶ方法は非常に奇妙な仕組みによっています。人はそれが自分にないのに関わらず、あると思い、それゆえに苦痛があります。それを解決するまでは人はそれを知りません。

たとえば愛は、ない場合、感情とか意識とかが代理をします。そうしてそれ、愛が人にあるかのように振る舞います。しかしないのです。それは蜃気楼かも知れません。でもそれは人を取り敢えずは一歩でも前に進ませるのです。

けれどこの仮のものに人は捕らわれやすいのです。これを執着といいます。これもまた人の自己、これがまだない(からな)のです。人は自己を探しても見つからないかも知れません。それはまだ彼にないのです。これも人がこの世界で学ぶものなのです。そうしてこれもない場合、やはり感情とか意識とかが代理をします。(このような状態にあることを自我と呼ぶようです)。

この自我を否定することは困難です。それは実際にまだ無いものを核としてあるのです。ほんとうにそこには自己がないために自我があるのです。これを本当に否定できるのは自己がある場合だけです。(この世界に苦痛がなければシックルタは仏陀になり得ませんでした、そして苦痛であったのは彼がまだ仏陀で無かったからです)。

ところでこのようなことに関係していると思われることをわたしは観察します。ある人がいて彼は随分自分勝手な人です。それはいろいろな行動に現れます。そして彼がそのようで在り続けるということに観察があります。ある見方からすると彼は他人が自分のそのようなことをわからないと見なしているのです。

そうしてそう見なすということはその部分が自分にとっても麻痺しているのです。そのような麻痺があるために彼は自分勝手な人であり続けます。しかし彼がもっとも自分であろうとして深く根差しているものはこの麻痺です。(この麻痺を無知とも呼ぶようです)。

ある人は他人を物差しで計る人です。おなじことが起こっています。かれは自分の家族に欲を持って(まだ愛のない状態では、たとえば感情がその代理をします、それを欲とよびます)「家族は無条件に愛す」こういうことを公言して恥ずかしく感じません。

またある人は他人に併せようとしていました。他人はそれ自身で何かについて確かにそう思っているのだから、自分がその意見に合わせても、なんの悪いことはないという併せかたです。彼は賢くあろうとして愚かでした。それが彼を悩ませていました。

これらは偶然であるかもしれません。けれどある種のバターンがあるようです。人は自分の麻痺しているところに捕らわれますが、その現れでそれが何であるか、自分で判断できる何だかのパターンがあるようです。ここには人の在り方の依存関係のようなものがありそうです。

ところでこのようなこと、だれしもあるものだと思われるでしょう。その通りです。それは人がまだ自己でないために起こることではないでしょうか。そこには自己の代理である自我があるのです。

ところで信仰について人は「人は神が必要だ、何か人は頼りにしたいのだ」こんなことを言うことがあります。まったく、そう、人はこの世界のものを頼りにすることはできません。しかし神がなにか物のようなものなら、それも意味がありません。信仰のない人はそのようなものです。まだ本当に信仰がないために代理の信仰がそこにあるのです。

そこにそれがないのに、それを否定しているのです。そこにそれがないから否定するというのは当たり前なのですが、これは逆説的です。代理が主人を否定するのです。代理は主人でありませんから当たり前なのです。これは秘密です。否定することによって、代理は在りえているのですが、それは主人がまだいないからです。

これは全く理論的に誤りではありませんが、けれど実際そこに信仰がないことが誤りなのです。そうしてなぜ誤りであるかといえば代理だからです。そうしてこのような仕方で人はそれを得るのです。神に祈るかも知れません、良い行いをするかも知れません。けれど、まず代理の信仰が人にあります。代理の自己があるからです。

この世界は仮の世界とも言われます。この世界は幻ともいわれます。そう、人が自己ではなく代理であればその通りです。人は生まれたままではまだ自己ではありません。ですから無知であって当たり前です。代理がいて(これは余りにも過剰な恵みです、人は甘やかされています、ですから執着に止まることもできるのです)あたり前です。

ふつう代理という場合はなにかがあってその代理があるのであるが、人の場合はまず代理が与えられているのです。しかもそれがどのような意味でも主人ではないことを知って、それを得るのです。与えられるのです。この言い方は変かも知れません。でもね、意識とか感情とか感覚とかだって自分で作ったものではないでしょう。それに自我があるということ、それは自己があることなくては意味がないではないですか。


ところで人は、この世界に生まれます。ここでわたしは例え話をしようと思います。その人は生まれたばかりでまだ特になにも知りません。しかし成長していく過程で、この世界にはお金持ちとか有名人とか英雄とか権力者とか芸術家とかがあるのに気づきます。

しかしその人にはまだ力がなく夢見ることしかできません。どうでしょう、この場合は人にまず夢が与えられるのです。そうして努力とか運とかが始まるのです。面白いとは思いませんか。まず現実ではなく、夢なのです。

さてこれは例え話です。つまり現実は例え話なのです。だって誰でも具休的に言わねば例え話にはならないではありませんか。ということは別にして。このことは人の自己の例え話です。このことは人はあまり認めたくないでしょうし、だれも聞いたことはないでしょうが、人は生まれたままでは自己ではありません。

で、まず夢が与えられます。これが自我とか執着とか言われるものです。それはもっと多くを強さを求め続けるという特性をもっています。夢とはそういうもののようです。

ところでこの自我とか執着とかは夢ですが、具体的なので、これはかなり人を迷わします。人が生まれるということは人よ自己であれということなのですが、人は代わりにこの世界のものを求めるのです。感情の愛とか、物質信仰とか自由の感覚とか、いわば欲と呼ばれているものです。

それは世界に対象を持ち理由を持ちます。ふつうには前者は物と後者は心と呼ばれますが、どちらも自己の対象になる物にすぎません。

さて、この夢を人が現実に実現することに非常な困難をともなうし、いくら頑張っても満足しないのも、それが夢であるからです。もしそれが本当に実現されてしまって満足してしまったとしたら、それは夢であることはできなくなるではありませんか。夢であることの役割をそれでは果たせないではありませんか。

あるいはまた飽きてしまうようにできています。で、人はどんな人でもそれを夢であることを密かには知っています。これこそ人たるゆえんであります。というよりも人のなんだかの欲望は成就されたとしても人を満足させることはできないようにできていると思います。

また人が何かを欲望していても苦痛であり、無限に求め続けなければいけないような感じがするのは、それが夢として作られているということではないでしょうか。人はこの世界に決して満足するということはないでしょう。世界は人に対して、そのような役目を持って作られているのではないでしょうか。

ところで問題があります。ここで自我とか執着を否定しようとすることもあるでしょう。これは問題です。それらは幾ら具体的に見えても仮のものですから、否定しようとすることもあるでしょう。しかしただそれを否定するだけでは本来の自己が現れる保証はなにもありません。

というのも夢見ているうちはまだ自己はそこにも、どこにもないからです。ただこの否定しようとすることさえ人が行うことは希です。この恐れがあるからでしょう。そういう人、自分のタラントを銀行に預けることさえ出来ないでいる人が、おおいいのです。

ところでこの否定は困難です。もちろんそのことにも意味があります。否定し続けると自己はまだ現れない状態であるからです。つまり自己が現れたいために自我の否定は困難になるのです。

これは否定してはいけないから否定することが困難でもあるのです。これは苦行であり人がまだ悪魔の領域にあるということです。自己をさえ否定しようとすることだからです。



posted by Ryo1151 at 19:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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