2010年04月23日

知らないということについて

知らないということについて。なにか良いことがあって人は喜びます。辛いことがあって人は落ち込みます。ひとりでいて淋しいかも知れません。しかしその例えば感情、それを人は何であるか知りません。ほんとうにそれは何でしょう。

そんなことを言ったら人が知っているものはないじゃないかと人は言うかもしれませんが、そうなのです。ビールを飲んで旨いという、そのことさえ何のことかわからないのです。それなのに人はそれに捕らわれたり、人は人を嫌ったり好きになったりします。自分の知らないものに依存しているのです。

あるいは知らないのにそれから逃れようとします。ひとりでいて淋しいから友達と一緒にいようとかします。いったいなんでしょうか。それは淋しさというものが解決されたということではないのに。

人は地位や名誉や金を求めるかも知れません。けれどそれがなんであるか人は知らないのです。ところである人は人に調子を合わせようとする人でした。それは自己保存を基にしていました。ある人は人を計る人でした。それも自己保存を基にしていました。そういうものです。

どっちにせよ、人に調子を合わせるということにせよ、人を計ることにせよ、自己保存にせよ、人は知らないのです。それなのにそれに依存します。そしてその自己保存の自己とはこの世界での生活、身体のことであることがおおいいのです。(あるいは人が自己保存に捕らわれるのは、人が自己保存を実現してないということです)。

しかも人はそれを知らず、それらは人から隠れているのです。人は人の知らないものに過剰に捕らわれるいわれはありません、なのにとらわれるとするなら、そこに意味があります。その人がまだ自己ではないということです。

あるいはまたそのことを無視するなら同じこと、その人が自己ではないということです。人はいいます。あなたを、お前を、愛している、言います。けれど人はそのことを知らないことがおおいいのです。取り敢えず、それは夢ですから。

わたしにしてもこの世界とは何だろう、考えます。これやっぱり自己保存です。人は地位や名誉や金を求めます。これ、やっぱり自己保存です。執着ともいいます。自己に執着するから、そのようなものを求めるのです。

けれど、それは本当の、本当に自己を求めているのではありません。却って逆の方向にあります。まだ人は自己では在りませんから、取り敢えず外に求めるということで自己を求めようとするのですが、実際は、自己を求めようとしているのです。

けれどそのことを忘れがちなのでしょう。人が執着する時には対象にではなく、執着していることに執着するということは正しいのではないでしょうか。さて、人はそのどれも知りません。それなのに過剰に捕らわれるのは、あるいは過少に捕らわれるのは、人がまだ自己ではないということではないでしょうか。

さて、例えばこの世界のどんなものも人の所有ではありません。だからといって人のものを盗んだら、これやっぱり悪いことです。このことは一体なんでしょう。わたしには理由がなく悪いことは悪いというように見えますが。これはまず前提、どんなものも人の所有ではないということが間違っているのでしょうか。

このまえ話した自由のように。あるいはもっと単純に、人の所有でもないものを盗むということは、自分の所有にするということなので、それが誤りであるということかも知れません。あるいは所有とか権利とか、そんな関係の中にはいることが悪いのかもしれません。盗んではいけないということは、神がモーゼに伝えた十戒、そのなかの一つです。

なにか人のものでも欲しいということは人にあるでしょう。そのことは何故あるのか、悪はなぜあるのか、これは何故なんだろうと人は思うこともあるでしょう。それは、人はこの世界に所有などないということを教えることでしょうか。どうでしょうか。

しかし人が物を所有すること、これも大切というか、どうしょうもない人の本能みたいな感じもします。神は特に所有を否定してはいないと思います。(わたしは聖書の神がイスラエルに約束の地とか子孫とかを与えると約束したことをどうも不思議に思っていました、それって現世利益だからです。しかしそれは多分神が人の自己を大切にするなら、人の生活も大切にするということでしょう)。

それに無所有を教えるためなら、人がこの世界に生きる理由もないのではないかと思えます。(もともと所有というものがなければいいではありませんか)。では所有したいという、その基になるものはなんでしょう。多分、自己保存です。(ただの欲の場合もあるでしょうが、おなじようなことです)。

さて自己保存とは普通は本能とか、倒錯とか、執着のこととして言われます。ここの話では盗むことによって、自己保存が人にあることが現れました。あるいは自己保存が人のものを盗むということによって隠れていながら有る、(実際そこにはなく、ただ隠れてあるという仕方で有るのかも知れません)。

この場合の自己保存とは生活とか身体とか欲とかを満足させることでしょう。このようにしてある種の自我があることが現れます。しかしわたしは言います、本当の自己保存とは人が自己であるということです。

で、なぜ盗んではいけないのかということから教訓が得られます。たとえば、盗んではいけないということは、ただ信じれば良いというわけではない、ただ行えばよいということではない、理解しなければいけないのです。

そうでなければ人にはまだ欲があり、それを抑えるだけでは、それが無いという訳ではなく、人はまだ自己ではないだろうからです。また人の内には、良いこと悪いことの区別は始めは理由もわからないかも知れないけれど確かにそれが有るし、それを大切にすべきなのです。

もし盗むなということが良いことか悪いことか分からずにただ従うだけなら(あるいはただ従わないだけなら)それから何を学べるというのでしょう。もし聖書が総べてであれば人の生きる意味がないではないですか。

ん−と、さて、盗んではいけないということで自己保存を抑えてしまって、それで終わりにしてはいけない。つまり対象物を得ないこととして、その動機である自己保存を抑えてしまうだけではいけない。人は自己であらねばならないということです。

たしかに自己保存は悪魔の領域にあります。けれど人が自己であるということは、そのことさえ人の役に立つように作られているのです。もし悪が必要ないなら始めからなければ良いではないですか。(人が作られた始めにはなかったのでしょうが、今はあるのです。あるのですから、ただそれを避けるだけでは不十分と思います。もしそれが本当に役に立たず無いほうが良いのなら、ないはずです)。

それは自己の夢、例え話なのです。このような見方、つまり盗んではいけないということは、人よ自己であれということであるという見方は、誤っているでしょうか。もし誤っているなら神はなんのためにそう言われたのでしょう。ほんとうに人の知る必要のないこととして言われたのでしょうか。

ところで律法学者から、戒めのなかでどれが一番大切ですかと聞かれた時、イエス・キリストは「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せ」「思いをこめ心をこめ精神をこめて神を愛せ」こう言っています。

それはただなんとなく選んだのではないのです。すべての戒めの意味を知って言ったのです。おそらく十誠にはそれを守るというだけよりも、はっきりした意味があるのではないでしょうか。

タグ:哲学 学問
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posted by Ryo1151 at 19:17| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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