2010年04月25日

二相一対。

さて、Aがあるのは反(非)Aがあるからである。このように2元論を言うこともできます。もちろんこの場合でもAがあると言いながら、それは実はあるように見えるだけであって、それだけでは存在しない、無常だよ、ということを言おうとしているのだと思います。

ただそれで言おうとしている無常は多分人を納得させえないことでしょう。じつにこの世界が無常であろうが、恒常であろうか、どう言おうが、人の自己とはこんなものであると人に納得させようとすることなのですが、どうもうまくいかないことがおおいいと思います。

それは理論的に誤っているし、理論には反意見があるし、理論はそれらしく見えるということに価値があるだけのものだし、人がどれだけ訳わからなくなって自己を知るということであっても、なかなか難しいものです。

では因果関係はどうでしょうか。「ものごとは条件によって生じたものであり、それ自体では生起も滅もない」こういうならそれは2元論とあまり変わるところはないと思われます。この世界の無常を強調し、ついでに自己の無常を言おうとしてもいるのでしょうが、人とものとの関係がいまいち不鮮明ではないでしょうか。

では依存関係は何を示すでしょう。それは世界が無常であっても恒常であっても成立しますが、それもまた、人の自己の正しい在り方を示す、倒錯なくある在り方を示すのみであります。


自己とはなにか?どうしてこのようなことが考えることができるのか?これを疑問にできることに、わたしは今日、不思議を感じました。そうしてたまたま、お経のなかに「空即是色・色即是空」というのがあったのを思いだし、それは「そんなことはどうでもよい」と訳すといいと思いました。

一般には「人が存在と思っているものは実は空で、空と思っているものは実は存在だ」と言うようですけど、これが対句であることを忘れています。すべてのことは空でも色でもどうでもよい、こういうことではないか、でなければ同じことを逆に言い直すことなど意味ないと思いました。

で、始めます。依存関係に矛盾があるでしょうか。依存関係とは、世界があるのは、それは感覚器官があるからであり、それは感覚があるからであり、それは感情があるからであり、それは意識があるからであり、それは自己があるからである、こういうことです。

そうしてそれぞれのものは、それ自体で存在しているにしても、条件によって生起するところのそれ自体では存在しないものであるにしても、同じあるということです。わたしには見つかりませんが、これには反対意見があるはずです。

というのも2元論がそれ自身を示すためにあったのではないように、依存関係も示すことがらがあるからです。それは単純。順番です。つまり(1)感覚や感情や意識は自己のためにあるのであって、(2)自己が感覚や感情や意識のためにあるのではないということです。(1)を正しく知ると言い(2)を倒錯と言います。倒錯とは執着の状態を言います。

ここのところは非常に込み入っていて、迷路のようです。人は一生をそこで遊んでしまうこともできるほどなのです。もし人が執着を語ることがあるなら、その仕組みと、その働きを示さねばなりません。じつにそうでなければ人はまだそれが自分をどのように捕らえているか知らないということだからです。

ここで最大の誤りは、「煩悩は解脱のことである」あるいは「自然にしていれば人はそれで良い」ということです。これでは執着のある理由を全く無にしています。それさえ人の自己のために働くのを忘れています。執着とは自己の揺籠であり、別名を自己保存といいます。

自己保存とは面白い名前で、人が自己でないためにそれ自身を守るという、悪くいえば実に欺きの名前で、よく特長を現しています。それは決して自己を守っているのではありません。いわば人が自己になる可能性を守っているのです。

それは仮の自己であり、それ自らがそれを守っています。その場合自己はまだありませんから、それが自己の替わりを努めます。このことが人は身体や感覚や感情や意識を自己と思い込むという原因になっています。(ただ実際にはそのようなことができる人はいません。そうできた人を気違いというのだとわたしは思います)。

このうえで仮の自己は自分自身を守るために働きます、人が自己になるまではそのようです。それでこの自己保存を押さえ込んででしまうこと、あるいは忘れることは、あまり利口な方法ではありません。人が自己になる可能性をも押さえ込み、忘れていることになりやすいからです。

もちろんなりやすいというだけのことで、そうなってしまうことは殆どありません。これが人の人である所以です。この仮の自己が自己保存するやり口を見ること、つまり理解することは困難かもしれないけれど巧妙な迷路を解くような面白さがあります。

もし人がこれを理解しなければ人は自分のなかで迷っているといっても言い過ぎではありません。これは執着ということも一つの方法です。みずからを義とすることも一つの方法です。自由を求めるということも一つの方法です。
posted by Ryo1151 at 17:43| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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