2010年04月29日

鏡像

もし人が身体に捕らえられるなら健康と病気があるでしょう。もし人が経済に捕われるなら裕福と貧乏があるでしょう。もし人が身の上に捕われるなら幸運と不運があるでしょう。

これをたとえば健康と病気、裕福と貧乏、幸運と不幸のほうから眺めていると、(多くの人の日常はこのようなものですが)なかなか実体がわかりません。人はなぜか良いものばかりを求めて、悪いものにしがみついているからです。

しかし学ぶならば、その良いものと悪いものがあるということには何か意味がありそうだ、と考えることができます。とはいえこれはかなり複雑であって、それがまた人を虜にするように働きます。それは、このまっただなかで研究すべきことです。

たとえば戦争と平和はともに投げ捨てることによって平和が実現できます。しかしとりあえず平和な日本でこう言っているから理解できるわけで、争いの絶えない国では理解できません。武装解除したら、どこかか攻めてくるというわけです。

しかし全世界の人がそれらを投げ捨てることは可能です。そうすれば平和が訪れます。あまりに単純です。これが実現できないのはなぜなんでしょう。それは投げ捨てることに対する恐怖にすぎないのではないでしょうか。

人は充分に学び進歩しなくてはなりません。(おそらく単に「自然に帰る」などということは学ぶことではありません。ある意味では戦争と平和は、それを乗り越えることによって人の役に立つのです)。

善と悪はどうでしょう。人がそのどちらかに捕らわれているかぎりは、反対のものが常にあります。これらも単に拠り所を求めているだけです。そういうものですが、それはやはり働きとして人の役に立ちます。

たとえば人が自分の悪を許すことができるのは、この仕組みを良く知ることによってなされます。善も悪も人の役に立っていること、そうしてその仕組みを知っているということ、それが人をして自分自身を許すことを可能にします。

悪は人を反省させることだけでも役に立っています。ただ本当は善も悪も、同じく人のためにあるのだと知ることが大切です。そうでなくただ一人で暮らすとか、人に迷惑をかけないことをモットーにするというのでは、折角ある善悪を活用することにはなりません。親孝行と親不幸は同じものです。親孝行で親が喜びます。親不幸で親が泣き叫びます。どちらも同じことです。

裕福と貧乏はどうでしょう。これは人が経済に捕らわれているということです。ふつうは自分が貧乏なのはどうしてだろう?もっとお金が欲しい、といったことで、これを、経済を見ていません。見ていないながらそれに捕らわれているのです。経済というものがあると思う限り、それらはあるのです。

では、それを投げ捨てることができるか?こんな問題があります。たとえばお金持ちが(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり裕福です。貧乏な人が(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり貧乏な人です。これは現実であって投げ捨てることはできない、こう多くの人は思っています。しかし自分だけよければという経済を全世界の人が投げ捨てたら、どうでしょう。それを何と呼んでもよいのですが、そういうことは可能ではないでしょうか。

そこに自分がいると思う、そういうことを捨てることが人にはできると思います。人はこのようなことを学ぶために毎日うめき苦しみ生活しているのではないでしょうか。

では病気と健康はどうでしょう。人が身体を頼りにしているなら、それらは必ずあります。病気の人が健康と病気を投げ捨てたら、やはり病気です。健康な人が病気と健康を投げ捨てたら、やはり健康です。

とはいえ多くの宗教ではそれも自分の思った通りになると言います。いままで悪いほうの半分にいたのなら良い方の半分に転がってもかまいはしません。ふつうは健康を求めていながらも人は病気にしがみついているものなのですから。

人は思って健康になれるのか金持になれるのか幸運になれるのか善になれるのか平和になれるのか私は知りません。知りませんが、問題はここにあります。なれると思っているからお題目をとなえたり祈ったりしたりする人がいるのではないかとも思います。そうして、結果的にそのようになる人もそうならない人もいるでしょう。

ここで思うのではないでしょうか。これを理解しなければいけない。そうでなければ良くなったといっても意味がないと思うから、思ったようにはならないのかも知れません。

それはそれとして。では経済と運はどう関係があるでしょう。道徳と経済はどう関係があるでしょう。これはこういうことです。人が経済にとらわれるなら裕福も貧乏もある、人が身体に捕らわれるなら健康も病気もある。では、この経済と身体はどう関係があるのでしょう、ということです。

人は道徳に捕らわれるなら善と悪があります。経済と道徳はどう関係があるのでしょう、ということです。これは何も関係がないのだと思います。けれど健康とか貧乏とかのことばかり見ていると、関係がありそうに見えるのです。これがまた人をそれに捕らえるように働きます。「なぜ清く正しい人が不運なことがあるのだろう」というわけです。

これを関係ないと言ったらミもフタもないかも知れません。でもまあ、そういうことにします。そうしておけば、いずれ理解が進むでしょう。

そうして関係がないということは実際にはどういうことかは、まだ知れてはいないのです。すくなくても何か関係があると思うから捕らわれていることができると言えるかも知れません。何か関係かあると思うから、人は貧乏や裕福に捕らわれるのではないでしょうか。

つまり人が貧乏や裕福に捕らわれるというのは、その2つのものの関係だけではなく、それを統合するもの(経済)に拠り所を持ち、さらに別のもの(例えば道徳)の関係もあるのではないかと考えるからかも知れないということです。

ところでこの辺りのことで人はどう思うのだろう。たとえば人は自分がその辺りにいると感じているだろうか。私は自分がそこにはいないと感じます。それが私の苦痛です。そこに自分がいない、これが私を平安にしません。

このようなあれやこれやは、そういった働きがありそうです。健康と病気に捕らわれる自分、裕福と貧乏に捕らわれる自分、善と悪に捕らわれる自分。そういうものが私にはないと感じられるのです。それが私の不幸です。

それに自分が捕らわれることができない、そこに自分がいない。それを知っていることが私の不幸です。あるいは捕らわれているのだけれども、それに価値を認めにくいということです。

そのようにこの辺りは感じるのではないでしょうか。そのようになっているのではないでしょうか。これを理解したいと思います。この世界はこのようなあのようなことでしかできていない、そこに自分はいない。それをどうすればよいだろうか。

私は人から自我の強い人であると見られることがあります。それはかまいません。いくら自我が強くてもかまいません。また弱くてもかまいません。人はそのどちらにもなれるのですし、どうというものでもありません。それにどんなに自我が強くても自分はそこにいないと私は知っているのです。これが私の不満です。

もう少し違う例えをしてみます。偽善と嫉妬は鏡像の関係にあります。偽善とは心の黒い人が形だけ(実は自分の構成要素のために)人のためになることをするということです。嫉妬はその裏返しです。それで偽善者は嫉妬する者なのです。それは不可分です。

これを人は知っておきましょう。ある人が嫉妬することがあるなら、その強さに応じて偽善者なのです。ある人が偽善者なら必ず、どんなに隠していても嫉妬する者なのです。私にはそれを理解したせいか、そういう気持ちがありません。

ともにないのです。もしあってもそれはそこにあるだけで、私に影響をあたえません。私が、自分がいないのを、そこにいないのを知っているのです。これは単に私が消極的な性格だからというわけだろうか、少しは嫉妬するくらいの根性があった方がいいのだろうかとか考えてみました。

しかし、そういうことであってもなくても、私はそこに自分がいないのを知っているのです。それが私の不幸です。ま、ことさらそう感じる必要はないのですが。そういう状態に私がいるということは確かなのです。

ともあれ、このような考えは世界が存在するのかどうかを問うことにもなっています。ところでちょっと思いつき。「神を見たことがないから信じられない」ということについて。そうは言っても見ているものを信じられるとどうして言えるのだろうか。夢を見ることもある幻覚を見ることもある錯覚をもたらす図形もある。見たのにそれは信じることはないであろう。見て信じられないものがあるのに、どうして「見たら信じる」ということが成り立つだろうか。

よ−するに、そう言う人はそれを知らないということしか示していないのです。自分で知りもしない考えを自分の拠り所にしてはいけません。それに信じることと存在することは何も関係ないのです。私は神を信じない、けれど神が存在することを知っています。

また思いつき。この前沖縄の霊能力者とか東北の超能力少女が「東京に地震がある」と予言してテレビなどで話題になりました。みんな楽しみに待っていたのですが、何も起きませんでした。予言できるということは未来が定まっているということです。そうして予言すると未来が変わってしまいます。ここに予言の矛盾があると思います。このようなことを能力者はどう思っているのでしょう。

餌と釣針。ふつう人は人生の一時期にしても、有名になりたいとか思うことがあるでしょう。それは実のところ人に対する信用を得たいと思うことに他なりません。新しいことをするにせよ、直ぐに初対面の人からも手助けを得ることを望むということです。

ところが有名になりたい人は余りこのことに気がつこうとしません。ただ夢のように有名になりたいのです。それは信用という魚を釣る道具なのです。しかも自分で握りしめたその道具を絶対条件だと思っているに過ぎません。

ことさら信用ということは、その反対のものの排除です。この反対のものを人がそのようにして作り上げていると言えないではありません。もし初めから疑うことなければ事態は随分ちがっているでしょう。それでもなお有名になりたいと人が思うのでしょうか。私は知りません。

また、たとえば人は恋をすることがあるでしょう。それは異性を得るための釣り道具であるかも知れません。というのも恋なしにそれを得ることもできるからです。財産の場合も、家柄の場合も、能力の場合も、ま、いろいろあるでしょう。

それは徹底して美しくありません。しかし何かが美しくて何かが美しくないということは変といえば変です。ここでは人がそのような道具を持っているということ、その理解で充分です。その道具を握りしめて使うことも勝手ですし磨きあげるのも勝手ですし手放すことも勝手です。

ただ魚を得ることは決して目的ではないということ、これが大切だと思います。道具を握りしめているからそのように見えるだけではないでしょうか。

それが見掛けの必然性を与えています。手段と目的はこのようなものであって、目的と手段を取り違える、というのが人にとって誤っているのではありません。ここで言う目的とは、ほんとの目的ではないから誤っているのです。

そういうものは例えば金持になる、権力者になる、自己顕示を満足させる、教育するなど、色々なことがあります。そういう形あるものを求めることは原因が結果になり結果が原因になり、そこには迷いしかありません。では目的とは、人が学ぶこと、成長すること、自己になることだと思います。それはあれやこれやの条件によって生じますが、それには関わらないのです。
posted by Ryo1151 at 20:20| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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