2010年04月27日

問いかけ。

おまえに世界の半分を与えよう。たとえば自分の心を、しっかりと定め善を求めるがよい。おまえは何か理想を求めて努力するがよい。人に親切にするがよい。親孝行するがよい。神を信じるがよい。そうすれば、おまえに世界の半分を与えよう・・・。それも良い方の半分を与えよう。悪い半分はお前に必要がない、捨てるのだ・・・。悪魔の契約とはこのようなものです。人はみな喜んで血の署名をしてしまいます。

ところがこれは多く見積っても全然半分でもありません。半分の半分の無限の半分でも得ることができたら儲け物です。しかもそういうことは起きた試しがないでしょう。どれほど人は自分が狭い領域に閉じ込められているか理解できません。それは居心地が良く、あるいは苦痛に満ちて守られているからです。また逆の半分を得ようとする人がいます。これも同じことで同じように意味がありません。これを知ることは難しいのです。

もしこれから学ぶことなければ、単なる処世術にしか過ぎないものになるでしょう。人はそこに自分自身がいるなどとさえ思ってしまいます。そうしてそこから抜け出すことは本当に難しいのです。これはその仕組みを良く知ることが大切です。世界の半分は残りの半分がなくては有り得ません。互いに互いを支えあっているのです。

しかしそれだけではいけません。罠に捕らえられた動物が知ることができるのは罠です。動物は罠に捕らえられなくては罠を知ることはできません。ただ近くを通り過ぎただけではそれを見ることさえありません。しかし半分と半分の鉄の歯に挟まれたと知ったところで、それから逃れられるという補償はありません。実際の問題は、それから逃れることです。

ところで広島に原爆が落ちて64年になります。この時期になると広島で原水爆禁止、世界平和を訴える人々が風物詩のようにテレビのニースになります。もう戦争は嫌だから止めようね、ということだと普通の日本人は思っています。

それを被害者意識が強いと、見る外国人もいるとのことです。なるほど単に平和運動をするのであれば何も広島でなくてもよいのです。単なる平和運動をすればいいのです。いや全然しなくても良いのです。

それでかどうか知りませんが今年、ある日本人が広島に原爆の落ちたことを謝ったのだそうです。それを見て感動した、これで世界が一つになれる可能性がでてきた、と言う外国人がいたという新聞記事がありました。なるほど、でも同じなのです。おなじ所をぐるぐる回転しているに過ぎません。

バスケットボールで軸足を中心に身体を回転させるのは歩いたことにならないというルールがあります。同じ位置にいながら前の味方コートを向けば平和、後ろの敵コートを向けば戦争、そんな具合です。同じ位置にいるのです。それが罠に捕らえられた人がすることです。

ま、でも全然動かないというわけでもありません。たとえば某国人は日本に対して非常に被害者意識が強いようです。それで何か威張っています。そういうのは加害者である日本を拠り所にして自分の被害者である立場を築いています。自分の意見の根り拠を相手に持っているのです。回転することもできていません。

さあ、どうする?バスケットのたとえで言うと、もうボールを投げてしまえばいいのです。戦争も平和も投げてしまえば良いのです。そうすれば本当の平和が実現するでしょう。しかしこれは難しいのです。

そうしろと言っても、そうできない百万の理由が考えられるでしょう。理由とは、それを投げ捨てることのないように考えつくものです。何か人が反論できない意見や理由を考えついた方が勝、などという馬鹿なことになったりします。

もともとそういうことがおかしなことであるのに気がつかないのでしょうか。頭の体操です。人は平和よりも、その概念を好むと言うことができるかも知れません。それは学ぶこと、そのようなものを発達させることの準備として役に立っているのでしょう。

そうして人がボールを手放したとします。そのためには人が学びきること、そうして成長することが必要条件です。解放感を味わいます。けれどすぐまた誰かがボールを投げて寄越すのです。人は執着を手放すことができます。戦争と平和を手放すことができます。愛と憎しみを手放すことができます。しかし、自分の状態、これを手放すことは難しいのです。


これをもう少し詳しく見てみます。人が戦争と平和の概念を投げ捨てると、平和が訪れます。あたり前ですが、平和でない国でそんなことをすると、戦争に巻き込まれます。たとえば人が貧乏と裕福を投げ捨てたとしてみましょう。

しかしその人が裕福であれば裕福でしょうし、貧乏であれば貧乏でしょう。すると、これは平和がない国の人が平和でないことを現実だと思っているように、経済を現実だと思っているのです。幸運とか不運を投げ捨てた人にとってもやはり運はあるでしょう。

それに人は全く捕らえられる必要はないのだけれど、どうしても、捕らわれてしまいます。「清く正しい人が貧乏なのはなぜなんでしょう」。こんな問題があります。ソロモンは清く正しい人でしたが、裕福であり、このようなことを見て、後の人に問いかけを残しました。
posted by Ryo1151 at 21:06| Comment(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月26日

自己保存

人は自分で思ったことを自分で知ることができます。ビールが飲みたいとか、散歩しょうとか、そういうこととしても、そう思ったことをそう思った通りに知ることができます。これは不思議なことなのですが、み−んなはどうかな?

さて、自己保存。これはいろいろ難しいことがあります。と言うのもそれは仮の自己をそれ自身が保存するいろいろな方法があり、仮の自己といってもいろいろな種類があるからです。方法とは、倒錯がそうです。執着がそうです。みずからを義とすることがそうです。自由を求めるということがそうです。意味を知らないということがそうです。

種類とは世界がそうです。感覚がそうです。感情がそうです。思考がそうです。心がそうです。命がそうです。行いがそうです。ほかにもまだあるでしょう。それらは実に迷いの領域にあります。もしそれが迷いでないとしたら、それは自己でしょうし、自己は存在しないでしょう。

ただこれらの生じる基というのがなにかありそうな気がします。それは人が自分自身を知らないということにあるかも知れません。たとえば普通の自己保存と言っても、それが守ろうとしているものは身体とか感覚とか感情とか思考とか、そういったものですが、それだけならけっして迷いでもなんでもなく言わば本能みたいなものです。

それが迷いとなるのは、じつに人が自分自身が存在するかどうか知らないというところにもあります。このことを知らねばいろいろ問題がありそうです。これへの問いが、一応、ものそのものへの問いとしてあります。

ものそのものの問いは「この壷が土であるように、お前は何であるか」という古代インドの親子の会話に例をみることができます。ここでは自己とは何かということがはっきり問われています。

これは生きても死んでも人の自己は存在しますか?という問いでもあります。これを人は知らないのです。この知らないことが自己保存に関わります。人は生きている時は自己(が存在)であるかどうか知らないけれど、死んでも自己でありますように、こんな願いがあるのではないかと思います。ただこの間いは困難で、だれもが考えたことは必ずあるとは思うのだけれど、すぐ諦めるというか忘れるというか、してしまいます。

けれどここでの自己保存の思いといういうのは実に切実で、それはこの問いが人の優先事項であることを示しているのではないでしょうか。それを破棄するというのはなにか理由があるのでしょうか。

ではその困難な面から少し見ていくことにします。人は自分が確かな存在だと思いたいとします。そうするとはっきりした根拠を求めるというのが通例です。なぜそうなのかわたしにはわかりませんが、取り敢えずはそうなっていると言っていいでしょう。

それで自己とかが何かに根拠を持つとします。するとどうでしょう。それはそれ自身では存在しないということになるのではありませんか。(もちろんこの反対の意見もいろいろな理由によってありますが、後述することにして、取り敢えずはこれで行きます)。

たとえば仏教でいう「条件によって生じたものは(それ自身で)生じたものではない」ということになります。その条件がなくなるとまた生じたものもなくなると説明されています。原因と結果、因果関係とも言われています。

それでもこの世では人は自分の拠り所を一生懸命に求め、そうするとが自己の存在を確定することだと思われているフシがあります。たとえば理論とか科学とか金とか地位とか親子関係とか感情とか、そういうものに人は拠り所を求めるわけです。

これは自己保存であり、この意味では自己の存在を知らないということが、自己保存の起原であるといってもよいでしょう。この無知さ加減を自分で認識するまでは、どうしてもそのような働きが人にはあるでしょう。それは言わば自己への問いの代償です。その代償もなくなるとかなり困ったことになるでしょう。

では拠り所がないのが、自己が存在するという確かな証拠になるでしょうか。このこともまた困難な道です。ものごとが、自己が、なにも拠り所がないならば、それはそれ自身で存在すると言えるでしょうか。これは言えません。それは全くの幻であるといってもよいからです。

これも自己保存の現れですが、両者は相容れることが、まずありません。しかしこのようなことがあるというのは必ず統合することがあるはずです。(ここで中道を言ってもいいのですが、中道とは単に真ん中とか両極端に偏らないことではありません)。

ではどうすれば良いのでしょうか。ここで後述を始めます。人がなにかに拠り所をもって、それでいて人の存在が確かなことがあるということがあります。それは人がかくある原因になっていることが、その拠り所であれば、そうでしょう。神がそうです。また、人は条件によって生じたのであるから、実際には生じているわけではないという考えもあります。生じていないのだから滅もまたないというわけです。不生不死とも言われます。

この世界のものを見るに、それらは原因とか結果によって生じている、この世界そのものが幻であるということです。これは龍樹の得意技です。(人の自己はいつも何かを探していますし、その対象物は原因なしで存在するのか、原因があって存在するのか、それはどういうことなのかそれぞれの場合についての理解する必要がありますし、この場合のものそのものとは何かという問題もあります)。

また例の古代インドの親子も彼等なりの依存関係で理解しました。肉体とか心とかを馬車と馬に例え、御者を自己に例えました。(ここでも依存関係とは順番のことであり、この会話を単に例え話としてみるならば誤った考えに見えます)。して見るといろいろな解決があるわけです。なのにこれが困難なのは、神は信じるということ、仏教関係は迷いの道で正しい目的にまで行くという難しさがあるからかも知れません。
posted by Ryo1151 at 20:43| Comment(15) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月25日

二相一対。

さて、Aがあるのは反(非)Aがあるからである。このように2元論を言うこともできます。もちろんこの場合でもAがあると言いながら、それは実はあるように見えるだけであって、それだけでは存在しない、無常だよ、ということを言おうとしているのだと思います。

ただそれで言おうとしている無常は多分人を納得させえないことでしょう。じつにこの世界が無常であろうが、恒常であろうか、どう言おうが、人の自己とはこんなものであると人に納得させようとすることなのですが、どうもうまくいかないことがおおいいと思います。

それは理論的に誤っているし、理論には反意見があるし、理論はそれらしく見えるということに価値があるだけのものだし、人がどれだけ訳わからなくなって自己を知るということであっても、なかなか難しいものです。

では因果関係はどうでしょうか。「ものごとは条件によって生じたものであり、それ自体では生起も滅もない」こういうならそれは2元論とあまり変わるところはないと思われます。この世界の無常を強調し、ついでに自己の無常を言おうとしてもいるのでしょうが、人とものとの関係がいまいち不鮮明ではないでしょうか。

では依存関係は何を示すでしょう。それは世界が無常であっても恒常であっても成立しますが、それもまた、人の自己の正しい在り方を示す、倒錯なくある在り方を示すのみであります。


自己とはなにか?どうしてこのようなことが考えることができるのか?これを疑問にできることに、わたしは今日、不思議を感じました。そうしてたまたま、お経のなかに「空即是色・色即是空」というのがあったのを思いだし、それは「そんなことはどうでもよい」と訳すといいと思いました。

一般には「人が存在と思っているものは実は空で、空と思っているものは実は存在だ」と言うようですけど、これが対句であることを忘れています。すべてのことは空でも色でもどうでもよい、こういうことではないか、でなければ同じことを逆に言い直すことなど意味ないと思いました。

で、始めます。依存関係に矛盾があるでしょうか。依存関係とは、世界があるのは、それは感覚器官があるからであり、それは感覚があるからであり、それは感情があるからであり、それは意識があるからであり、それは自己があるからである、こういうことです。

そうしてそれぞれのものは、それ自体で存在しているにしても、条件によって生起するところのそれ自体では存在しないものであるにしても、同じあるということです。わたしには見つかりませんが、これには反対意見があるはずです。

というのも2元論がそれ自身を示すためにあったのではないように、依存関係も示すことがらがあるからです。それは単純。順番です。つまり(1)感覚や感情や意識は自己のためにあるのであって、(2)自己が感覚や感情や意識のためにあるのではないということです。(1)を正しく知ると言い(2)を倒錯と言います。倒錯とは執着の状態を言います。

ここのところは非常に込み入っていて、迷路のようです。人は一生をそこで遊んでしまうこともできるほどなのです。もし人が執着を語ることがあるなら、その仕組みと、その働きを示さねばなりません。じつにそうでなければ人はまだそれが自分をどのように捕らえているか知らないということだからです。

ここで最大の誤りは、「煩悩は解脱のことである」あるいは「自然にしていれば人はそれで良い」ということです。これでは執着のある理由を全く無にしています。それさえ人の自己のために働くのを忘れています。執着とは自己の揺籠であり、別名を自己保存といいます。

自己保存とは面白い名前で、人が自己でないためにそれ自身を守るという、悪くいえば実に欺きの名前で、よく特長を現しています。それは決して自己を守っているのではありません。いわば人が自己になる可能性を守っているのです。

それは仮の自己であり、それ自らがそれを守っています。その場合自己はまだありませんから、それが自己の替わりを努めます。このことが人は身体や感覚や感情や意識を自己と思い込むという原因になっています。(ただ実際にはそのようなことができる人はいません。そうできた人を気違いというのだとわたしは思います)。

このうえで仮の自己は自分自身を守るために働きます、人が自己になるまではそのようです。それでこの自己保存を押さえ込んででしまうこと、あるいは忘れることは、あまり利口な方法ではありません。人が自己になる可能性をも押さえ込み、忘れていることになりやすいからです。

もちろんなりやすいというだけのことで、そうなってしまうことは殆どありません。これが人の人である所以です。この仮の自己が自己保存するやり口を見ること、つまり理解することは困難かもしれないけれど巧妙な迷路を解くような面白さがあります。

もし人がこれを理解しなければ人は自分のなかで迷っているといっても言い過ぎではありません。これは執着ということも一つの方法です。みずからを義とすることも一つの方法です。自由を求めるということも一つの方法です。
posted by Ryo1151 at 17:43| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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