2010年04月25日

欲=動機。

自己を知らない宗教は倒錯の宗教です。
欲の宗教です。なにかが欲しい、極楽、天国に生きたい、みな欲の宗教です。無知であることも同じです。それらは何かを基準にしているのだと思います。

感情とか、意識とか、感覚とか。そして何か対象物を持っているでしょう。自力であれ他力であれ同じです。仏教であれキリスト教であれ同じことです。この意味ではたしかにどの宗教も同じです、どれでも同じです。

ところで人は日常で思うことがあると思います。金が欲しい、地位が欲しい、自分を人に認めさせたい、なんでもいいのですが、そのことは一体なんであろうか、これを考えることは大切です。それは自己の叫び声です。ふつう人はそういうことが必ず与えられています。必ずなにかあります。必ず人が捕らえられているものがあります。それが役に立つのです。それが、この世界で学ぶことの始めです。

なぜ、倒錯が欲なのか。それは自己以外の物に依り頼むことを欲というからです。

神がこの世界に拠り所を持つだろうか。この世界が神に拠り所を持つのです。自己はこの世界の何者にも依り頼んではいけません。

自我が有るということ、欲があるということ、それには意味があり説明できることです。そうでなくてどうしてそれがあると言えるでしょう。

ただ、自我を捨てよう、こんなことだけでは意味がありません。自我がなぜあるのか理由を示せなくては、自我について人に言ってはいけません。


人はこの世界のなかで生きています。人が自分の廻りを見渡すと、総べてが物です。これは面白いことです。そのどれかに人は欲を持つようになっています。この世界がこぞって人のために自我を提供しています。

そして自我とは自己の例え話です。それは否定するものではなく、いわば成就されねばならないのです。

ところで例えばこの世界の楽しみとかを求めると、人は永遠の命を望むかも知れません。この世界の楽しみを欲すると命に執着するということです。しかし人が命を求めることを目的とすると、どうでしょう、この世界の喜びを求めるでしょうか。

これは不可逆です。でもと言うか何と言うか、この世界の楽しみを求めることから命を求めることが始まるなら、始めの動機はともかくとして目的は、そのことは良いことです。

そして命を人は、この世界のものを得ることで得ることはないでしょう。(しかしイエス・キリストは言っています。わたしは命なり、蘇りなり、と)。

人は生きていて楽しむこと平安であること、そんなことによって、まず命の大切さというか、それを望むことを知ります。そのままではきっとまだ命の例え話しか与えられてはいないのでしょうが。それでもそれを得られるということが期待できるのです。
つまりこの世界の楽しみが原因になって望まれたことでも、それには頼らずに、ん−と、動機と結果は違うけれど、そのことに充分に正当性があるのです。考えてみれば人が自己であろうとすることもおなじです。

人は自己であることを目的とすると、実際この世界のものを求めることによってはそれは無理であろうということを知ります。始めは自己顕示欲でも自己主張でも何でもいいのです。それは欲であり、それは倒錯であり、それは自己以外のものを拠り所とすることであり、それは自己であろうとすることの始まりです。

それは自己の影であり、幻であり、夢であります。悪魔の領域です。ほとんどの場合、対象を求めるということは自己保存を呼びおこしますし、自己保存は悪魔の領域にありますが、自己保存を人が目的にするならば対象を求めることによっては不可能であることは人に知れるのです。

それは不可逆です。ただ愚かな人のみが可逆的なことだと思い違いします。そして多分おおくの人が愚かなままです。物に対する欲、そして自分に対する欲、これらがあります。

いわば欲によって自己であろうとすることは始まりますが、自己であろうとして欲することはできません。それは確かに欲によって自己は始まろうとしますが、それは同じものではありません。ですから欲の解放も制御も否定も無意味です。欲とは触媒のようなものです。

目的と手段はここでは明らかに違うのです。人はこの世界のものに欲することによって自己であろうとする動機を与えられます。そして人が自己であろうとするなら、この世界のものを欲することによっては得られないのです。欲とは手段というより動機と言ったほうがわかり易いでしょう。


posted by Ryo1151 at 07:36| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月23日

知らないということについて

知らないということについて。なにか良いことがあって人は喜びます。辛いことがあって人は落ち込みます。ひとりでいて淋しいかも知れません。しかしその例えば感情、それを人は何であるか知りません。ほんとうにそれは何でしょう。

そんなことを言ったら人が知っているものはないじゃないかと人は言うかもしれませんが、そうなのです。ビールを飲んで旨いという、そのことさえ何のことかわからないのです。それなのに人はそれに捕らわれたり、人は人を嫌ったり好きになったりします。自分の知らないものに依存しているのです。

あるいは知らないのにそれから逃れようとします。ひとりでいて淋しいから友達と一緒にいようとかします。いったいなんでしょうか。それは淋しさというものが解決されたということではないのに。

人は地位や名誉や金を求めるかも知れません。けれどそれがなんであるか人は知らないのです。ところである人は人に調子を合わせようとする人でした。それは自己保存を基にしていました。ある人は人を計る人でした。それも自己保存を基にしていました。そういうものです。

どっちにせよ、人に調子を合わせるということにせよ、人を計ることにせよ、自己保存にせよ、人は知らないのです。それなのにそれに依存します。そしてその自己保存の自己とはこの世界での生活、身体のことであることがおおいいのです。(あるいは人が自己保存に捕らわれるのは、人が自己保存を実現してないということです)。

しかも人はそれを知らず、それらは人から隠れているのです。人は人の知らないものに過剰に捕らわれるいわれはありません、なのにとらわれるとするなら、そこに意味があります。その人がまだ自己ではないということです。

あるいはまたそのことを無視するなら同じこと、その人が自己ではないということです。人はいいます。あなたを、お前を、愛している、言います。けれど人はそのことを知らないことがおおいいのです。取り敢えず、それは夢ですから。

わたしにしてもこの世界とは何だろう、考えます。これやっぱり自己保存です。人は地位や名誉や金を求めます。これ、やっぱり自己保存です。執着ともいいます。自己に執着するから、そのようなものを求めるのです。

けれど、それは本当の、本当に自己を求めているのではありません。却って逆の方向にあります。まだ人は自己では在りませんから、取り敢えず外に求めるということで自己を求めようとするのですが、実際は、自己を求めようとしているのです。

けれどそのことを忘れがちなのでしょう。人が執着する時には対象にではなく、執着していることに執着するということは正しいのではないでしょうか。さて、人はそのどれも知りません。それなのに過剰に捕らわれるのは、あるいは過少に捕らわれるのは、人がまだ自己ではないということではないでしょうか。

さて、例えばこの世界のどんなものも人の所有ではありません。だからといって人のものを盗んだら、これやっぱり悪いことです。このことは一体なんでしょう。わたしには理由がなく悪いことは悪いというように見えますが。これはまず前提、どんなものも人の所有ではないということが間違っているのでしょうか。

このまえ話した自由のように。あるいはもっと単純に、人の所有でもないものを盗むということは、自分の所有にするということなので、それが誤りであるということかも知れません。あるいは所有とか権利とか、そんな関係の中にはいることが悪いのかもしれません。盗んではいけないということは、神がモーゼに伝えた十戒、そのなかの一つです。

なにか人のものでも欲しいということは人にあるでしょう。そのことは何故あるのか、悪はなぜあるのか、これは何故なんだろうと人は思うこともあるでしょう。それは、人はこの世界に所有などないということを教えることでしょうか。どうでしょうか。

しかし人が物を所有すること、これも大切というか、どうしょうもない人の本能みたいな感じもします。神は特に所有を否定してはいないと思います。(わたしは聖書の神がイスラエルに約束の地とか子孫とかを与えると約束したことをどうも不思議に思っていました、それって現世利益だからです。しかしそれは多分神が人の自己を大切にするなら、人の生活も大切にするということでしょう)。

それに無所有を教えるためなら、人がこの世界に生きる理由もないのではないかと思えます。(もともと所有というものがなければいいではありませんか)。では所有したいという、その基になるものはなんでしょう。多分、自己保存です。(ただの欲の場合もあるでしょうが、おなじようなことです)。

さて自己保存とは普通は本能とか、倒錯とか、執着のこととして言われます。ここの話では盗むことによって、自己保存が人にあることが現れました。あるいは自己保存が人のものを盗むということによって隠れていながら有る、(実際そこにはなく、ただ隠れてあるという仕方で有るのかも知れません)。

この場合の自己保存とは生活とか身体とか欲とかを満足させることでしょう。このようにしてある種の自我があることが現れます。しかしわたしは言います、本当の自己保存とは人が自己であるということです。

で、なぜ盗んではいけないのかということから教訓が得られます。たとえば、盗んではいけないということは、ただ信じれば良いというわけではない、ただ行えばよいということではない、理解しなければいけないのです。

そうでなければ人にはまだ欲があり、それを抑えるだけでは、それが無いという訳ではなく、人はまだ自己ではないだろうからです。また人の内には、良いこと悪いことの区別は始めは理由もわからないかも知れないけれど確かにそれが有るし、それを大切にすべきなのです。

もし盗むなということが良いことか悪いことか分からずにただ従うだけなら(あるいはただ従わないだけなら)それから何を学べるというのでしょう。もし聖書が総べてであれば人の生きる意味がないではないですか。

ん−と、さて、盗んではいけないということで自己保存を抑えてしまって、それで終わりにしてはいけない。つまり対象物を得ないこととして、その動機である自己保存を抑えてしまうだけではいけない。人は自己であらねばならないということです。

たしかに自己保存は悪魔の領域にあります。けれど人が自己であるということは、そのことさえ人の役に立つように作られているのです。もし悪が必要ないなら始めからなければ良いではないですか。(人が作られた始めにはなかったのでしょうが、今はあるのです。あるのですから、ただそれを避けるだけでは不十分と思います。もしそれが本当に役に立たず無いほうが良いのなら、ないはずです)。

それは自己の夢、例え話なのです。このような見方、つまり盗んではいけないということは、人よ自己であれということであるという見方は、誤っているでしょうか。もし誤っているなら神はなんのためにそう言われたのでしょう。ほんとうに人の知る必要のないこととして言われたのでしょうか。

ところで律法学者から、戒めのなかでどれが一番大切ですかと聞かれた時、イエス・キリストは「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せ」「思いをこめ心をこめ精神をこめて神を愛せ」こう言っています。

それはただなんとなく選んだのではないのです。すべての戒めの意味を知って言ったのです。おそらく十誠にはそれを守るというだけよりも、はっきりした意味があるのではないでしょうか。

ラベル:哲学 学問
posted by Ryo1151 at 19:17| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月22日

まだ悪魔の領域

さて、人がこの世界に生まれて、どのようなものが彼にあるだろうか。物心(これは面白い言葉です)が付いた場合、意識とか感覚とか感情とかは、改めて考えてみることもなく、人には普通に備わっていると思います。

このことに普通は疑問を持ったりもしないのですが。ですが愛や信仰や自由が人として生まれただけで備わっていると思うとしたら、とんでもない思いちがいです。人はこの世界でそれを学ばねば得ることはありません。(もし人に最初からそれがあるとしたら何のための命でしょう)。

しかもその学ぶ方法は非常に奇妙な仕組みによっています。人はそれが自分にないのに関わらず、あると思い、それゆえに苦痛があります。それを解決するまでは人はそれを知りません。

たとえば愛は、ない場合、感情とか意識とかが代理をします。そうしてそれ、愛が人にあるかのように振る舞います。しかしないのです。それは蜃気楼かも知れません。でもそれは人を取り敢えずは一歩でも前に進ませるのです。

けれどこの仮のものに人は捕らわれやすいのです。これを執着といいます。これもまた人の自己、これがまだない(からな)のです。人は自己を探しても見つからないかも知れません。それはまだ彼にないのです。これも人がこの世界で学ぶものなのです。そうしてこれもない場合、やはり感情とか意識とかが代理をします。(このような状態にあることを自我と呼ぶようです)。

この自我を否定することは困難です。それは実際にまだ無いものを核としてあるのです。ほんとうにそこには自己がないために自我があるのです。これを本当に否定できるのは自己がある場合だけです。(この世界に苦痛がなければシックルタは仏陀になり得ませんでした、そして苦痛であったのは彼がまだ仏陀で無かったからです)。

ところでこのようなことに関係していると思われることをわたしは観察します。ある人がいて彼は随分自分勝手な人です。それはいろいろな行動に現れます。そして彼がそのようで在り続けるということに観察があります。ある見方からすると彼は他人が自分のそのようなことをわからないと見なしているのです。

そうしてそう見なすということはその部分が自分にとっても麻痺しているのです。そのような麻痺があるために彼は自分勝手な人であり続けます。しかし彼がもっとも自分であろうとして深く根差しているものはこの麻痺です。(この麻痺を無知とも呼ぶようです)。

ある人は他人を物差しで計る人です。おなじことが起こっています。かれは自分の家族に欲を持って(まだ愛のない状態では、たとえば感情がその代理をします、それを欲とよびます)「家族は無条件に愛す」こういうことを公言して恥ずかしく感じません。

またある人は他人に併せようとしていました。他人はそれ自身で何かについて確かにそう思っているのだから、自分がその意見に合わせても、なんの悪いことはないという併せかたです。彼は賢くあろうとして愚かでした。それが彼を悩ませていました。

これらは偶然であるかもしれません。けれどある種のバターンがあるようです。人は自分の麻痺しているところに捕らわれますが、その現れでそれが何であるか、自分で判断できる何だかのパターンがあるようです。ここには人の在り方の依存関係のようなものがありそうです。

ところでこのようなこと、だれしもあるものだと思われるでしょう。その通りです。それは人がまだ自己でないために起こることではないでしょうか。そこには自己の代理である自我があるのです。

ところで信仰について人は「人は神が必要だ、何か人は頼りにしたいのだ」こんなことを言うことがあります。まったく、そう、人はこの世界のものを頼りにすることはできません。しかし神がなにか物のようなものなら、それも意味がありません。信仰のない人はそのようなものです。まだ本当に信仰がないために代理の信仰がそこにあるのです。

そこにそれがないのに、それを否定しているのです。そこにそれがないから否定するというのは当たり前なのですが、これは逆説的です。代理が主人を否定するのです。代理は主人でありませんから当たり前なのです。これは秘密です。否定することによって、代理は在りえているのですが、それは主人がまだいないからです。

これは全く理論的に誤りではありませんが、けれど実際そこに信仰がないことが誤りなのです。そうしてなぜ誤りであるかといえば代理だからです。そうしてこのような仕方で人はそれを得るのです。神に祈るかも知れません、良い行いをするかも知れません。けれど、まず代理の信仰が人にあります。代理の自己があるからです。

この世界は仮の世界とも言われます。この世界は幻ともいわれます。そう、人が自己ではなく代理であればその通りです。人は生まれたままではまだ自己ではありません。ですから無知であって当たり前です。代理がいて(これは余りにも過剰な恵みです、人は甘やかされています、ですから執着に止まることもできるのです)あたり前です。

ふつう代理という場合はなにかがあってその代理があるのであるが、人の場合はまず代理が与えられているのです。しかもそれがどのような意味でも主人ではないことを知って、それを得るのです。与えられるのです。この言い方は変かも知れません。でもね、意識とか感情とか感覚とかだって自分で作ったものではないでしょう。それに自我があるということ、それは自己があることなくては意味がないではないですか。


ところで人は、この世界に生まれます。ここでわたしは例え話をしようと思います。その人は生まれたばかりでまだ特になにも知りません。しかし成長していく過程で、この世界にはお金持ちとか有名人とか英雄とか権力者とか芸術家とかがあるのに気づきます。

しかしその人にはまだ力がなく夢見ることしかできません。どうでしょう、この場合は人にまず夢が与えられるのです。そうして努力とか運とかが始まるのです。面白いとは思いませんか。まず現実ではなく、夢なのです。

さてこれは例え話です。つまり現実は例え話なのです。だって誰でも具休的に言わねば例え話にはならないではありませんか。ということは別にして。このことは人の自己の例え話です。このことは人はあまり認めたくないでしょうし、だれも聞いたことはないでしょうが、人は生まれたままでは自己ではありません。

で、まず夢が与えられます。これが自我とか執着とか言われるものです。それはもっと多くを強さを求め続けるという特性をもっています。夢とはそういうもののようです。

ところでこの自我とか執着とかは夢ですが、具体的なので、これはかなり人を迷わします。人が生まれるということは人よ自己であれということなのですが、人は代わりにこの世界のものを求めるのです。感情の愛とか、物質信仰とか自由の感覚とか、いわば欲と呼ばれているものです。

それは世界に対象を持ち理由を持ちます。ふつうには前者は物と後者は心と呼ばれますが、どちらも自己の対象になる物にすぎません。

さて、この夢を人が現実に実現することに非常な困難をともなうし、いくら頑張っても満足しないのも、それが夢であるからです。もしそれが本当に実現されてしまって満足してしまったとしたら、それは夢であることはできなくなるではありませんか。夢であることの役割をそれでは果たせないではありませんか。

あるいはまた飽きてしまうようにできています。で、人はどんな人でもそれを夢であることを密かには知っています。これこそ人たるゆえんであります。というよりも人のなんだかの欲望は成就されたとしても人を満足させることはできないようにできていると思います。

また人が何かを欲望していても苦痛であり、無限に求め続けなければいけないような感じがするのは、それが夢として作られているということではないでしょうか。人はこの世界に決して満足するということはないでしょう。世界は人に対して、そのような役目を持って作られているのではないでしょうか。

ところで問題があります。ここで自我とか執着を否定しようとすることもあるでしょう。これは問題です。それらは幾ら具体的に見えても仮のものですから、否定しようとすることもあるでしょう。しかしただそれを否定するだけでは本来の自己が現れる保証はなにもありません。

というのも夢見ているうちはまだ自己はそこにも、どこにもないからです。ただこの否定しようとすることさえ人が行うことは希です。この恐れがあるからでしょう。そういう人、自分のタラントを銀行に預けることさえ出来ないでいる人が、おおいいのです。

ところでこの否定は困難です。もちろんそのことにも意味があります。否定し続けると自己はまだ現れない状態であるからです。つまり自己が現れたいために自我の否定は困難になるのです。

これは否定してはいけないから否定することが困難でもあるのです。これは苦行であり人がまだ悪魔の領域にあるということです。自己をさえ否定しようとすることだからです。



posted by Ryo1151 at 19:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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