2010年04月18日

前提

たとえば人は自己を感情だと、あるいは身体だと直接的には思うことはできません。けれど、そういうことを前提にしてとあることを認める時、思う時、行う時、そのようなになります。と言うより何かを思い行う時、たとえば自己を身体だとするということが前提とされるということが成立しています。

たとえばちょっといい例は思いだしませんが、適切ではないかもしれませんが、例えば、男の人ってあたしを狙ってるんだからということを認める時、女は自分を身体であることを前提としてあり、そうなります。たとえば親の地位とか名誉を越えたいということが在る時、反発とか、出世欲とか、権力欲とか、そういうものが前提となり、前提はほとんど無条件に受け入れられるという性質があり、人はそういうものに捕らわれます。

たとえば上役のことをぶつぶつ言ったり噂したりすると、愚かさとか他力とかをそれは前提としてあり、人は愚かさとか他力とかを受け入れてしまっています。

これは逆イエス・キリストの山上の垂訓です。というよりイエス・キリストの言葉はこの仕組みを解明して良いことを言っているのです。福音と言われています。

なんだ、お前は仕事が出来ない、そう思う時、人は能力とか出世とか地位とかに、すでに捕らわれてあります。お前のいうことなど誰も聞くものか、こう思う時、人はたとえ悪いことでも多くの人がすることはしてもいい、これが前提とされてあり、すでに、そのような人になっています。普通は何かを考えるには前提が必要だとか言われます。けれど実体は逆です。何かを思う時すでに前提が発生しているのです。

そうしてこの場合の前提とは単にある考え方というものではなく、人がそうあるところのものです。あいつは自分勝手な奴だ、こう思う時、人は自分がこそ他人を拒んでいるのです。わたしはここでさほど適切な例を考えつきませんが、このような在り方で人はあります。

世間様のように金とか意見とか物を基礎とする時、人はただこの世界でいきて死ねば終わりになります。よ−するにこれは悪魔の領域です。非常に巧妙です。

つまり何か意見とか行いが成立するためには前提が必要ですが、もうすでに意見とか行いとかがあるのだから、前提は確定しているのだと、実際は意見とか行いによって前提は成立するに関わらず、人に思い込ませるというより人をそれに引きずり込むのです。



posted by Ryo1151 at 20:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

どのようなものもない。




たとえば朝、人から挨拶されない、人から卑下された、無視された、よくあることですが。いわゆるそういう時、人はムカッとくるわけです。自尊心ですね。満足されないために自尊心が起こるわけです。満足されないために起こりましたが、普段はどうなのでしょうか。普段は感じていなくてもやっぱり、そういう自尊心はあると見るほうがいいでしょう。

よかったですね、卑下されたために、つまらないものが自分にあるということが分かって良かったですね、わたしは思います。ところで人はやはり自分を何ほどの者と思いたく、他人を卑下したい思いがあるようです。わけもなく自分の職業に誇りを持ったりします。職業には貴賎はないとかね。よ−するに何でもいいんです、尊厳を持ちたいということです。

ここで何でもいいんだろう、なんてわたしが言いますと、大概の人は怒りますが。わたしにとっては自尊心が自分にあったと知ることは落ち込みの原因になります。苦しいです。自尊心が傷つけられて人は苦しいのですが、それは自尊心があるということが苦しいのかも知れません。多分これは皆おなじではないでしょうか。

苦しいからムカッときて、相手に立ち向かうのかも知れません。そのほうがあるいは楽ともいえなくはないでしょうから。しかも立ち向かっている相手に、私を助けてくれ、こう言っているのですから。この倒錯している自分を助けてくれ、こう言っているわけです。

ムカッときて立ち向かうことによって自分は迷いの存在になっているのですが。ここんところを波風たてないよう人々は、おたがいに尊重しあって生きていくわけです。おだてあって生きていくわけです。あるいはつまんないところで傷めあっているわけです。人は自分も苦しいですから他人も苦しめたいのです。苦しいのが好きなんです。

ところでわたしから卑下されたと思っている人がいて、わたしに怒ったとします。そこでわたしは、わたしに何か助けて欲しいのですか?と言ったらどうなるのでしょうか。多分ますます怒り狂うでしょう。そうあって欲しくありませんが、そうしなくてはならないでしょうね。

でも「豚に真珠を与えてはならない」のです。「猫に小判」というのは価値の分からない人には良いものも無駄という意味ですが、豚に真珠は、与えてはならないのです。

ちょっと話を戻します。卑下されて「こいつめ」こう思ったとします。そうすると自己でないものが自己になってしまいます。それは苦しいです。そのようでなければ人は自己であるというわけでありませんが。つまり人は自己ではない、このことが明らかになると人は苦しいです。普段はそれさえ隠れています。

とある宗教では「自己を捨てよ」といいますが、すでに自己でないものをさらに捨てるのは難しいのです。よく見ること、よく分析することは大切です。けれどこの場合、そうするとますます泥沼に嵌まってしまいます。理由とか原因とか根拠とかいろいろ考えて、それに捕らわれてしまいます。

それにとらわれて自己でないものが自己になるわけです。これってなかなか面白くて人は一生これで遊ぶのです。どこかに旅行にいくとか、何かゲームをするとか、遊びはいろいろあるでしょうが、実際にはこれで人は遊んでいるのです。

自己について。それが何であるか言うまえに人が死ぬことを考えてみましょう。人が死ぬと身体は死ぬでしょう、意識は死ぬでしょう、感覚は死ぬでしょう、感情は死ぬでしょう。しかし、それらは自己ではありません。これは余りにあったり前のことです。ですから人は死ぬ、だから人は死なないのです。というのも人は生まれてないからです。

理論的に言えばこのようになります。自己とはどのようなものでもありません。そうして神もどのようなものでもありません。それで古代インド人は神と人とを同一視しました。アートマンはブラフマンであると言いました。自己は梵天であると言いました。

しかしそれはこの世界においての在り方であって、事実ではないと思います。たとえばここに小石があります。その小石にとっては小石自身とは他のどのようなものでもないでしょう。けれどそれは小石です。そうして小石はわたしではありません。つまりお互いがどのようなものでもなくても、お互いは違っているのです。これは何を示すでしょうか。

なんにせよ自己が自己であるのは理由がわからないはど根が深いです。えーと、だから人は自己とはこんなものだと思う必要さえありません。わけ分からないほど自己ですから。よ−するに人は倒錯してしまいますが、わざわざそうしてまで自己であろうとする必要はありません。もし、そのようであっても自己とは何かと問えば答えがないのではありませんか。あったり前です、どのようなものでもないからです。



posted by Ryo1151 at 21:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月12日

識らない

さて、わたしがイエス・キリストが信じられる、彼が気違いでも嘘つきでもといえば、例えば仏教者は、「もし仏陀が気違いでも嘘つきでも信じる」と言うでしょう。そして、わたしが葬式など詰まらない、わけのわからないことをやっているだけだ、と言えば、仏教者は「生きていることはわけのわからないことだ」と言うでしょう。

それは信仰でしょうか。わたしはキリストが好きです。けれど、なかには本当に本当に仏陀を信仰している人もいるでしょう。しかし、それは本当に信仰でしょうか。というのは仏陀は信じるものではなく、人の成るもの、であるからです。実際、誰でも知っているように人間シッダルタが、仏陀に成ったのです。

キリストも仏陀も、どちらも人の理解の目標でしょうが、どちらも意味合いは違うにしても救い主でしょうが、人は仏陀になれますが、キリストにばなれないのではないでしょうか。キリストは神の子であります。そしてキリストを通じて人の子は神の子になります。神とは創造主です。仏陀は人の信仰する対象ではなく人のなるものであり、神こそ信仰の対象ではないでしょうか。人のなれるものを人は信仰していいのでしょうか。

でも、仏陀を本当に本当に信仰している人は、いるかも知れません。けれど人は仏陀を信仰するのではなく、仏陀になるべくあるのではないでしょうか。しかし世の中にはイエスはキリストに成ったのだと、人は神にもなれるのだと言う人もいるでしょう。それはもう信仰ではない感じがします。

それは人が成れるものですから、信仰ではないのではないでしょうか。キリストにおいてそう言うことはキリストを引き下げることです。仏陀においてそう言うことは正当です。仏教において人は自らを小さくし愚かにします。これはキリストの弟子もそう(実際には彼はそういいましたが、非常に聡明)でしたが。

ただ、ほかにもわたし自身が知らないこともあるのでしょうが、人がなるものを信仰することは変です。自分がそう成るものであるからです。それは言わば自分の理想形を拝んでいるのです。拝むより成るものではないでしょうか。拝んでいては成れないのではないでしょうか。

それともこの世界には自分の理想形を信仰すると、それに成れるという法則でもあるのでしょうか。ま、仏さま、仏さま、と、拝んでいるとそのうち確かに仏様にはなれますがね。それがなんであるのかわたしに言うことが出来ればいいのですが。では、信仰とはなんでしょう。

それはわたしにとって、それを信じれば天の国を得ることができるとか楽園で過ごすことができるとか、そういうこととしては全くありません。それは取り敢えず、とにかく大切なこと、生きていて為すべきこと、重要なこと、欠かせないこと。人の生きる意味がそのようなこと、そのように思われます。

たしかに聖書には信仰の定義が書かれてあります。まだ見ぬものを確信し、とか書かれてあります。えーと、ヘブライ11−1「信仰とは望んでいることに対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です。」と書かれてあります。

この言葉は例えば天の国とか楽園とかを人が望んだとしてそれに対する保証された期待とか神の存在についての明白な論証のことを言うのでしょうか。どうでしょう。イエス・キリストが「野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔かず紡がず、働かず」と言うのを、ああ、そうだ事実その通りだ、と理解したところで、それは理解でしょうか。



「その日の労苦はその日で充分である」ということは、ただそれだけのことでしょうか。あるいは人はただ本当にそれだけのこととして受け取るだけの資格のある人でしょうか。

ところで話を変えます。多くの人はあまり人としても良くありません。例えば陰口いったり、ぶつぶつ言ったり、ろくでも無いことをしたりします。それは他力本願です。この言い方は独断的で、まったく話がつながらないように見えるかも知れません。けれど、そうではありません。

というのも、それらは他人に、いさめられるのを目的とするからです。普通は自分の思うことすることが自分に対して救いを求めることです。けれどそういう人の場合は、それ以上に他人の力を当てにするのです。それは隠れた他力本願、幼い他力本顧です。

そして多くの場合、他力本願と言われるものには、このような有様が隠れてあります。もし、このことを解決してないなら、はっきりとそうだと思います。ここでわたしはなにも仏様にお祈りしている他力の人のことばかりを言っているのではありません。普通の人のことを言っているのです。普通に会社に行き、普通に学校に行き、普通に生活している人のことです。

だれがこうした、ああした、どうだこうだとお喋りしたり、血液型を調べたり、恋占いをしたりする人達のことです。世間でもよくいうではありませんか「人の迷惑になることをするな」。言っている人も何のことか知らずに言っているのでしょうが。世間というもののおおくの部分がこれで成り立っています。世間様とはこのようなことです。

世間様とは、世間様を気にかける人のことですが、他力はいけないと言いつつ、その意味を知らないためにその罠に嵌まっている人のことです。ここの構造は、よく出来ています。それで世間が世間として成り立ちます。たとえば「人の迷惑にならないなら何をしてもいい」ということがあって、わたしは可笑しいですが、それがまた世間を強化します。

それは「人の迷惑になることはするな」を前提にして導き出されるのですが、その前提の意味は何でしょう、そして、その理解は正しいでしょうか。「人の迷惑になることはするな」ということは他力であるなということですが、言っている本人も聞いている人も、他力を本懐とする世間様のようになれと、了解しているのです。

なんとなく、世間様は正しい、自分の迷惑にならない、だから自分も世間様と同じになろう、こう思われています。その世間様とは大声をだしたり裸で走り廻ったりしないという位にしか思われていません。

普通、社会に対する反抗が無意味に滑稽に感じられるのもこのためです。本来的には、人の迷惑になるなということはそういう意味ではありません。それは他力であるなという意味です。だからと言って自力であれ、ということでもありません。このように言われている言葉の意味と内容が全く違っていて、しかも誤った方向に人を向ける、その方法は実に巧妙です。

またこういうことがなければ、と言うより何もなければ、それは人をそこに止めて置くことは困難でしょう。でも人はそういうのに捕らわれるのが好きです。それは悪魔の領域です。人は知らないとはだれも言えないのですが、というのも、それはそのようでなければ在りえないでしょうから、ですが、捕らえられるのが好きです。おおくの人はそれでもこれを知らなかったと言うでしょう。


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posted by Ryo1151 at 19:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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